和歌山教会 

今月の説教

2026年1月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  「主の御心のままに」
ヤコブの手紙
4章13節~17節
  "According to the Will of the Lord"
James 4:13-17

 
「あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」(15節)わたしたちの予定を最終的に決めるのは、神さまです。わたしたちには、自分で立てた予定を御心に従って変更する柔軟さが必要です。「御心が行われますように」という祈りには、「想定外の御心が示されたとしても、喜んで主に従うことができますように」という願いが込められています。ペトロがガリラヤ湖の漁師だった時、夜通し苦労したのに何もとれずに朝を迎えたことがありました。主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。(ルカによる福音書5章4節)ペトロは、早く家に帰って休みたかったでしょうし、きっと徒労に終わると思っていましたが、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。すると、網が破れそうになるくらいの大漁になりました。このように、自分の命について「明日のことは分からない」のは、主の御心についても同じです。すなわち、明日、神さまがわたしたちをどのように用いようとなさっているのか、神さまがわたしたちについて立てている明日の予定を、わたしたちは知りません。もしかしたら、誰かのために思いがけず時間を取られることになるかもしれません。そうなれば、せっかく自分で予定を立てていても、その通りには過ごせません。それでも、「主の御心であれば、そうしよう」と志すのです。
 わたしたちは、「わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。」(14節)けれども、このようにはかないわたしたちのために、主イエス・キリストは御自分の命を与え尽くしてくださいました。わたしたちの生涯のすべての日々を罪から清めるために、キリストは十字架で命をささげてくださいました。ですから、わたしたちが生かされている全ての時間は、キリストの命によって清められた時間であり、キリストに贖われた時間です。すなわち、わたしたちの一日一日は、わたしたちのものではなく、主のものです。わたしたちのスケジュール帳のすべての日々には、キリストの十字架のしるしが刻まれています。その尊い一日一日に、わたしたちは「主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう」(15節)と予定を書き込みます。それゆえに、わたしたちの願いよりも、いつも主の御心を優先するのです。
 「人がなすべき善」(17節)とは、わたしたちについての主の御心であり、神さまがわたしたちに期待しておられることでしょう。それは、今はわたしたちが思いもよらないことであるかもしれません。わたしたちは、この一年も「主の御心であれば、あのことやこのことを」喜んでいたしましょう。(元日礼拝の説教より)

                                                                                                                                                         Raphael, The Miraculous Draught of Fishes

 

 
"If the Lord Wills, We Shall Live and Do This or That"
"Instead you ought to say, 'If the Lord wills, we shall live and do this or that.'" (James 4:15)
Beloved in Christ, it is the Lord who holds the final word over all our plans and purposes. What He requires of us is not rigidity in our own designs, but rather a spirit of holy flexibility—the grace to surrender our carefully laid plans to His sovereign will. When we pray those sacred words, "Your will be done," we are offering something far deeper than mere words. We are saying, "Lord, even when Your will surprises us, even when it runs counter to our expectations, grant us hearts willing and eager to follow You with joy."
Consider the apostle Peter in his former life as a fisherman upon the Sea of Galilee. One night he labored until dawn, casting and hauling his nets, yet catching nothing. Exhausted and discouraged, he surely longed only to return home and rest. But then the Lord Jesus spoke: "Put out into the deep water and let down your nets for a catch" (Luke 5:4). How futile this must have seemed! Yet Peter answered with words of profound faith: "Master, because You say so, I will let down the nets." And behold—the catch was so abundant that the nets began to tear.
Just as we cannot know what tomorrow holds for our own lives, neither can we foresee the unfolding of God's purposes for us. We do not know how the Lord intends to use us tomorrow, nor what divine appointments He has written into the hidden pages of our future. Perhaps we will be called unexpectedly to serve someone in need. Perhaps our carefully ordered schedule will be interrupted by the very hand of God. And when that happens—when our plans must yield to His—we learn to say with Peter, "If the Lord wills, we shall do so."
James reminds us with stark clarity: "You are a mist that appears for a little while and then vanishes" (James 4:14). Our lives are fleeting, fragile as morning vapor. And yet—hear this glorious truth!—for us who are but mist and shadow, the Lord Jesus Christ gave everything. He poured out His very life. To redeem every hour of our transient existence, to cleanse every day from the stain of sin, Christ offered Himself upon the cross.
Therefore, beloved, every moment we draw breath is time sanctified by Christ's sacrifice. Every hour is not merely our own to spend as we please—it has been purchased at infinite cost. Each day belongs to Him. Every page of our calendars, every entry in our planners, bears the invisible yet indelible mark of the cross. Upon these precious, redeemed days we write our intentions, always with this sacred qualifier: "If the Lord wills, we shall live and do this or that." This is why we must always place His will above our own desires.
"Anyone who knows the good he ought to do and doesn't do it, sins" (James 4:17). The good we ought to do—this is nothing less than the will of the Lord for our lives. It is what God intends for us, what He calls us to become and to accomplish. And often, it is something we cannot yet imagine.
As we embark upon this new year, let us walk forward with these words upon our lips and written upon our hearts: "If the Lord wills, we shall do this or that." Let us embrace the divine interruptions, the holy surprises, the unexpected mercies. Let us live each day not as masters of our fate, but as willing servants of the One who gave His all for us.
May we joyfully surrender our plans to Him, saying with the psalmist, "My times are in Your hands" (Psalm 31:15).
Amen.
(From a New Year's Day sermon)
 
 
 

2025年12月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  「罪からの救い」
Salvation from Sin
マタイによる福音書
The Gospel According to Matthew
1章 18 節~ 25 節
  1:18–25

 
 
ヨセフと婚約していたマリアが子を宿しました。ヨセフは、その子は自分以外の男との間の子どもであると考えるほかありませんでしたから、とても苦しみ、悩んだことでしょう。この苦悩から抜け出す道を、ヨセフは見つけたように思いました。それは、「このことを表ざたにはせず、ひそかに縁を切ろう」という決心でした。
マリアが罪に問われないようにという、ヨセフなりの「正しさ」でした。けれども、ヨセフの決心と正しさは、彼の苦悩の本当の解決にはなりませんでした。主の天使は、ヨセフに「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と告げました。つまり、ヨセフは、マリアの夫となること、さらに、生まれてくる子の父となることを、恐れていたのです。
マリアの語る通り、その子が聖霊によって宿った神の子であったとしても、救い主の父親として自分はふさわしいとは思えませんでした。「ヨセフの決心は、このような恐れから逃れるための隠れ蓑であった」とするのは、厳しすぎる見方でしょうか。

受胎告知 1445年、フラ・アンジェリコ作

 
ヨセフを苦悩と恐れから救ったのは、彼の決心や正しさではなく、「この子は自分の民を罪から救う」という神さまの決心であり、神さまの正しさでした。マリアから生まれる子「罪からの救い」は、ヨセフをも罪から救い出す救い主です。
このお方を恐れずに迎え入れなさいと、神さまは天使を通してヨセフに告げました。
「自分の民」とは「主イエスの民」です。主イエスは、わたしたちを選ばれ、「自分の民」としてくださいます。「自分の民」という呼び方をするのは、その民を統治しているお方であり、その民の王です。主イエスは、わたしたちの王として来てくださり、わたしたちを神さまの王国の民としてくださいました。
歴代の王たちも「主の目に悪とされることを行った」と列王記に記されています。主イエスへと至る系図が示しているのは、神の民でありながら、神さまの御名を汚し続けてきた、罪人の歩みです。父なる神さまは、この罪人の歴史の中に、愛するその独り子をお遣わしになりました。それは、神さまを裏切り続け、拒み続けてきた神の民を、それでもなお「自分の民」として愛し、「罪から救う」ためでした。
そのために、独り子の命を犠牲にすることを、神さまは決意してくださいました。そのようにしてまでも、神さまは我々と共にいてくださるのです。主イエスもまた、罪深い者たちを「自分の民」と呼び、罪から救うために、その一族になってくださいました。ヨセフがマリアを妻として迎え入れ、生まれてくる子の父となったことを通して、アブラハムからダビデを経てヨセフに至る罪人たちの系図に、主イエスは名を連ねてくださったのです。
インマヌエルのイエス・キリストは、罪人を訪ね、そして罪人と共におられる神さまなのです。

 
"God in the Middle of Our Mess"

Mary was engaged to Joseph when he found out she was expecting a baby. Imagine his heart breaking—he knew the child wasn't his. To protect Mary from being judged by everyone, he decided to break up with her quietly. He thought he was being "righteous" and doing the right thing, but deep down, he was just lost in pain.
Then, an angel appeared and told him: “Joseph, don’t be afraid to take Mary as your wife.”
The truth is, Joseph was scared. Even if the baby was truly from God, he probably felt like he wasn't "good enough" or "holy enough" to be the father of the Savior. His plan to walk away wasn't just about being kind; it was a way to run away from a responsibility that terrified him.
But what saved Joseph wasn't his own "goodness" or his perfect decisions. It was God’s decision to save us. God told him that this child, Jesus, would save His people from their sins. And "His people" includes Joseph—and all of us.
If you look at Jesus’ family tree, it’s not full of perfect people. It’s full of kings who failed and people who made big mistakes. But God chose to send His only Son into that exact mess. God didn't wait for us to be perfect; He decided to sacrifice everything just to be with us.
By becoming part of Joseph’s family, Jesus stepped into our messy human history. He is "Emmanuel"—the God who doesn't watch us from a distance, but the God who stays right beside us, even when we feel unworthy or afraid.

2025年11月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  天の国に入る
マタイによる福音書
7章 21 節~ 23 節

  主イエスは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われました。(マタイによる福音書7章 21 節)「天の父の御心を行う」とは、善い行いを積むことではありません。どれほど立派な行いをした人であっても、天の国の祝宴から閉め出されてしまうかもしれないのです。(同 22 ~ 23 節)「天の父の御心を行う」とは、「天の父に愛されている子どもとして生きる」ことです。主イエスは、山上の説教の中で、その幸いを語ってくださいました。
  天の父である神さまは、子どもであるわたしたちを愛しておられ、それゆえに、わたしたちに必要なものをご存じです。(マタイによる福音書6章8節や同 32 節など)さらに、わたしたちの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいありません。(同 11 節)「だから、思い悩むな」と主イエスは語られました。父なる神さまに愛され、知られているの
で、わたしたちは安心することができます。

ミケランジェロ「最後の審判」1535-41年 システィーナ礼拝堂

  この「父なる神さまの愛」のしるしが洗礼です。わたしたちが洗礼を受けるとき、御子イエス・キリストが洗礼をお受けになった時と同じように、父なる神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心(すなわち御心)に適う者」と告げてくださいます。(マタイによる福音書3章 17 節参照)わたしたちが善い行いをしたからではなく、御子イエス・キリス
トが十字架でわたしたちの罪をすべて償ってくださったので、わたしたちは「御心に適う者」とされ、天の国に入れていただけることになりました。さらに、こうして神さまに深く愛されていることを喜びながら、安らかに生きることを、神さまはわたしたちに望んでおられます。この神さまの思いを受け止めることが、「天の父の御心を行う」ことであると言えるでしょう。
 考えてみますと、主イエスが再び来てくださる時に、「主よ」と主イエスに呼びかけながら、「わたしはあなたのために、これだけのことを行いました」と、自分を誇ることはできないのではないでしょうか。むしろ、主イエスのたとえ話に登場する一人の徴税人のように、遠くに立って、主イエスに向かって目を上げることもできないまま、胸を打ちながら、「主よ、罪人のわたしを憐れんでください」と願うしかないと思います。しかし、そのように主の憐れみに依り頼む者を、神さまは義としてくださるのです。(ルカによる福音書 18章 13 ~ 14 節)
 天の父なる神さまの子どもであるわたしたちは、主にはっきりと知られています。ですから、「あなたたちのことは全然知らない」と言われることは決してありません。かの日には、わたしたちは主イエスと共に天の国に入り、祝宴の席につきます。そして、「したしくわが主に告げまつらまほし。『救いを受けしはみ恵みなりき』と。」(讃美歌 1954 年版 518 番よ
り)
  
 

2025年10月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  マタイによる福音書
6章 19 節~ 24 節

 
主イエスは、「あなたがたは地上に富を積んではならない」と言われました。(マタイによる福音書6章 19 節)とはいえ、できる範囲で蓄えを積み立てて、将来に備えることは、ごく普通の考え方だと思います。
 それは、神さまから与えられた恵みを賢く用いることにもなります。主イエスも、わたしたちなりの知恵と工夫で将来に備えることを全て否定なさったわけではないと思います。
ただ、主イエスは、蓄えを積み立てているわたしたちの顔をのぞき込みながら、「あなたの心は、今、どこにありますか」と心配して声をかけてくださっているのです。主イエスは「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」とも言われました。(同 21 節)
 主イエスのたとえ話には、いくつも倉を建てて、そこに有り余るほど豊かな財産を蓄えて、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ」と自分自身の魂に語りかけた金持ちが登場します。(ルカによる福音書 12 章 19 節)それほど豊かではないとしても、蓄えを積み立てながら「さあ、これで安心だ」とわたしたちが自分に言い聞かせているときに、主イエスは「あなたの心は本当に安心できますか」と語りかけておられます。
 

                         

 
この絵は、ヴィクトリア時代以降によく作られた「道徳挿絵moral illustration」の一つで、説教や家庭聖書に添えられました。視覚的に「富のむなしさ」「死の必然」「信仰の重要性」を伝えるための教育的な版画です。

 
イエスは「富は、天に積みなさい」と言われました。(マタイによる福音書6章 20 節)天は、わたしたちの父なる神さまがおられるところです。父なる神さまは、わたしたちが願う前から、わたしたちのために、天で富を積み立ててくださっています。
 今日一日の糧も、明日の糧も、すでに、父なる神さまのふところに蓄えられています。これまでに犯した罪
の赦しも、これから犯す罪の赦しも、すでに、神さまのもとに備えられています。わたしたちが追加して積み立てる必要はありません。
 しかも、喜ばしいことに、わたしたちがどんな失敗をしても、天に積まれた富が減らされることはありません。
 つまり、主イエスはこのように告げておられるのです。「父なる神さまが備えてくださった『あなたの富』は、天にある。『あなたの富のあるところ』、すなわち天の父なる神さまのふところに、あなたの心のより所がある。
 だから、地上の富ではなく、天の父なる神さまに、いつもあなたの心を向けていなさい。」さらに、主イエスは言われました。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(同 24 節)「仕える」とは、「奴隷になる」、「隷属する」ということです。もし、エジプトのファラオのように、わたしたちを虐げる存在の奴隷となるなら、わたしたちのいのちが脅かされてしまいます。わたしたちは、いのちを守ってくださる主人を必要としています。
 わたしたちは、自分の力では、自分のいのちも、大切な家族のいのちも、守ることはできないからです。そして、どんなに豊かな財産も、死の力からわたしたちを守ってくれません。主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださり、わたしたちに永遠の命をもたらしてくださった神さまのほかに、わたしたちのいのちを委ねることができるお方はいません。
 ですから、「わたしは神さまに仕えます」と、はっきりと告白するのです。この信仰をわたしたちに授けてくださるのも神さまです。聖霊が父なる神さまをいつもわたしたちの心に示してくださいます。
   

🖼️ 上段:豊作と金持ちの思案

金持ちは収穫した穀物や作物の山を前に立ち、考え込んでいます。
「わたしの作物をしまう場所がない。どうしようか。」

🖼️ 中段:新しい倉を建てさせる

金持ちは使用人たちに命じて、古い倉を壊し、さらに大きな倉を建てています。

🖼️ 下段左:富を楽しむ金持ち

完成した倉の中で、彼は自分の財産を前にして満足げに座っています。
 

2025年9月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  神さまの御前で生きる
創世記17章1節~8節

私の前に歩み、全き者でありなさい
 アブラム(後のアブラハム)は、「わたしの示す地に行きなさい」という主の御言葉に従って旅立ちました。75歳の時でした。(創世記12章4節)神さまは、満天の星空の下で、アブラムに「あなたの子孫はこのように(満天の星のように多く)なる」と約束なさいました。アブラムは主を信じました。(創世記15章6節)ところが、それから10年が過ぎても、アブラムと妻サライには子どもが生まれませんでした。この10年間は、「あなたの約束を実現してください」と二人で祈り続けた日々であったと思います。しかし、とうとう待つことを諦めて、二人は神さまに頼らずに、自分たちの工夫で跡継ぎを得ようとしました。ほどなくして、アブラムと、サライの女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルという男の子が生まれました。しかし、それは、アブラムとサライの間に子どもを与えると約束し、契約さえ結んでくださった神さまを裏切る行為でした。アブラムも、サライも、ハガルも、大いに苦しみ、傷つくことになりました。

(創世記16章)
ハガルとイシュマエル 1746

  ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳でした。(創世記16章16節)それから13年が過ぎました。(創世記17章1節)この13年間、神さまはアブラムに現れることもなく、語りかけることもありませんでした。神さまが沈黙しておられた13年間、アブラムは、自らの罪を悟り、深く悔いたのではないでしょうか。神さまの沈黙の中で、とうとう、アブラムは99歳になりました。妻のサライは10歳年下であるとは言え、もはや子どもを望むことはできないと思われました。そのアブラムに、主なる神さまが現れて、「わたしは全能の神である」と語りかけました。(創世記17章1節)人が、罪によって自ら道を閉ざし、行き詰まり、希望を失ってしまったところでも、神さまは全能の御力を発揮してくださいます。全能の神さまが、アブラムの罪を乗り越えて、救いの御業を成し遂げようとしておられました。
 神さまはアブラムに「私の前に歩み、全き者でありなさい」と言われました。(創世記17章1節、聖書協会共同訳)直訳すると、「わたしの顔の前を歩み、裏表のない者でありなさい」となります。すなわち、神さまがアブラムに求めたのは、神さまのまなざしのもとで生きることでした。考えてみますと、アブラムは、幾度も、誘惑に負けて、神さまの御顔から目を背け、神さまから離れて生きようとした人でした。そのために、相当に深く傷ついてきました。しかし、それでも、神さまはアブラムをお見捨てにならず、アブラムの面前に現れてくださいました。そして、「いつまで、わたしを離れて生きていこうとするのか」と語りかけ、本来いるべき場所(神さまの面前)に連れ戻してくださいました。
神さまは、アブラムに、あらためて、「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」と言われました。神さまの側から「わたしとあなたの間にはいろいろあったけれども、もう一度、わたしと共に歩もう」と、手を差し伸べてくださったのです。アブラムはひれ伏すばかりでした。アブラムに、神さまはアブラハムという新しい名をお与えになりました。神さまの恵みによって、アブラハムは神さまの御前で生きる新しい人として生まれ変わったのです。


 

2025年8月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  神さまに導かれるままに
創世記11章31節~12章4節

 
主に用いられる生涯
 アブラム(後のアブラハム)の父はテラでした。テラには、アブラムのほかにもナホルとハランという息子がいました。ところが、「ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ」のです。(創世記11章28節)テラと家族には深い悲しみがあったことでしょう。
やがて、テラは、アブラムとサライ、ハランの息子(すなわちテラの孫)のロトと共に、住み慣れたウルを離れ、カナン地方に向かいました。しかし、途中のハランまで来ると、テラはそこにとどまりました。アブラムが家族とともにハランを出発した時も、テラは一緒に行きませんでした。テラは高齢になり、先へ進めなかったのかもしれません。とはいえ、テラには、「もし出て来た土地のことを思っていたなら、戻るのに良い機会もあった」と思います。(ヘブライ人への手紙11章15節参照)テラは、前に進めなくても、引き返すことはありませんでした。
結果的には、テラは、目指していたカナンにたどり着けずに、遙か手前にあったハランで地上の旅路を終えました。テラは挫折したように感じるかもしれません。けれども、神さまの救いのご計画のなかで、テラの生涯にはかけがえのない意味が与えられていました。信仰の父と呼ばれるアブラハムを、ハランという出発地点まで導いたのはテラでした。テラの歩みがあってこそ、「父(テラ)の家を離れて」、アブラハムは旅立つことができたのです。アブラハムの物語に先だって記されている系図も、アブラハムの系図ではなく「テラの系図」となっています。(創世記11章27節)
ですから、どこまで到達できたのか、何を成し遂げたのかが、わたしたちの生涯の意味を定めるのではありません。神さまは、わたしたちの日々を、永遠のご計画の中で用いてくださいます。わたしたちにとって大切なのは、神さまが一人ひとりに与えられた道のりを、一歩ずつ、たゆまずに歩むことです。

 
主の御言葉に従って旅立つ
 神さまはアブラハムにこう言われました。「行きなさい。あなたの地から、あなたの親族から、あなたの父の家族から離れて、わたしがあなたに見せようとしている地へ」(創世記12章1節、直訳)75歳になるまで人生の大部分を過ごした故郷、血縁関係で結ばれた親族、愛を注がれてきた父と家族は、いずれも、アブラハムにとって大切なものばかりでした。しかし、アブラハムの迷いを断ち切るように、「それらを後に残して、あなたは出発しなさい」と主は言われました。せめて道筋が分かれば安心できると思うのですが、神さまはただ、「わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラハムがこのような主の御言葉を聴いた時、何を感じたのか、一切語られていません。また、アブラハムの言葉も一切語られていません。あるのは、ただ主の御言葉のみです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(4節)これがすべてでした。信仰生活は、安心して座り込むことではなく、主の御言葉に従って歩む旅です。神さまが「行きなさい」と言われたなら、それが出発の時なのです。

 

2025年7月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  あなたを決して滅ぼさない
創世記9章8~17節

罪ある者を愛する神さま 神さまは、「地上の人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」ことをご覧になりました。神さまは「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」のでした。(創世記6章5~6節)わたしたちの罪は、神さまに御自分の美しい創造の御業を後悔させてしまっていることを、心に留めたいと思います。また、わたしたちの罪は、わたしたち自身を傷つけるだけではなくて、この世界全体に影響を及ぼしています。それゆえに、神さまは、人だけではなく、この世界のすべてをぬぐい去ることにしました。しかし、いのちが滅びてゆく様を天からご覧になって、神さまはどれほど悩まれたでしょう。
洪水の後で、神さまは「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われました。(8章21節)洪水があっても、人は変わりませんでした。それにもかかわらず、神さまは「わたしは二度とこの地上を呪うことはしない」と言われました。
 
虹の契約
「二度と滅ぼさない」という永遠の契約のしるしとして、雲の中に虹を置かれました。神さまは、「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」と約束してくださいました。(9章16節)すなわち、神さまは、わたしたちに、「虹を見るたびに契約を思い起こしなさい」と命じたのではありませんでした。わたしたちに先だって、神さまが契約を御心に留め、「あなたたちを滅ぼさない」という約束を思い起こしてくださいます。洪水が終わって人とこの地が救われたのは、神さまが箱舟にいたすべてのいのちあるものを御心に留めてくださったからでした。(創世記8章1節)そして、神さまは、思い起こした約束を、今このときも、実現してくださっています。宗教改革者のカルヴァンは、「わたしたちは本来、日々、洪水によって滅ぼされるはずであった」と語っています。それでもわたしたちが滅ぼされることなく生かされているのは、神さまがわたしたちを御心に留め、深く憐れんでくださっているからです。わたしたちが生かされているどの瞬間にも、キリストの十字架による赦しがあり、神さまの愛があります。
このように考えると、神さまが契約のしるしとして虹を選ばれたことには、深い意味があると思われます。ヘブライ語(旧約聖書の原語)では、「虹」はもともと「弓」を意味します。(英語でも虹はrainbowですが、この単語もrain〔雨〕とbow〔弓〕から成り立っています。)雨上がりの虹は、地上に置かれた弓に見えます。神さまは、人に対して二度と弓矢を使わないと約束して、弓を置かれたことを、虹は象徴しています。さらに、地上にかかる虹が弓であるとすれば、その弓につがえられた矢は天に向かって飛んでいくことになるでしょう。すなわち、わたしたちの罪に対する神さまの御怒りは、もはや地に向かって放たれることなく、天に向けて放たれることも示唆しているようです。その矢を受けてくださったのは、天にいます神さまご自身であり、イエス・キリストでした。それゆえに、わたしたちは滅びません。

 

2025年6月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  人のいのちを満たすキリスト
創世記2章15~25節

「人が独りでいるのは良くない。」  神さまは、人を創造し、「エデンの園」に住まわせました。(8節、15節)「エデン」とは「しあわせの地」を意味するそうです。エデンの園では、人が神さまの吐息を肌に感じられるほど、神さまが人の近くにいてくださいました。神さまは、御自分の御顔を、塵にすぎない人に寄せてくださり、人の鼻に命の息を吹き入れてくださいました。(7節)神さまの息吹が人の体内を満たしました。そして、人の吐息を神さまは受け止めてくださいます。こうして、神さまと人は呼吸を通わせ、思いを通わせることができました。だから、人はしあわせでした。
ところが、エデンの園にいる人を神さまがご覧になって、「良くない」と言われました。神さまはお造りになったすべてのものをご覧になって「極めて良かった」と言われたはずなのに、「良くない」ことが生じていました。良くなかったのは、「人が独りでいる」ことでした。エデンの園では神さまが人のすぐ近くにいてくださったのに、人は独りでいたのです。人は、神さまの御言葉に耳を傾けず、神さまの御名を呼ぼうとしませんでした。神さまが近くにいてくださるのに、人は神さまを無視して独りになります。これが罪です。「独り」(18節)と訳されている言葉は、「かけら」を意味します。つまり、人は、神さまと関わりなく独りになるとき、人のいのちはかけらになり、全きものではなくなっているのです。
「彼にふさわしい助け手を造ろう。」(18節、聖書協会共同訳) 神さまは、人のために動物や家畜を創造されました。動物や家畜はそれぞれ人を助ける存在ではあっても、「自分に合う助ける者」ではありませんでした。すなわち、人のいのちの欠けた部分を満たし、人と一緒に神さまの御名を呼んで祈る者ではありませんでした。
 そこで、神さまは、人(アダム)の体の一部から、もう一人の人(エバ)を創造されました。アダムにとってエバは分身とも言える特別な存在でした。ふさわしい助け手として、これ以上の存在は考えられませんでした。しかし、アダムとエバは、お互いに相手の助ける者となれませんでした。後に、エバが蛇に誘惑された時、アダムは彼女の助ける者として「神さまは『食べてはいけない』とおっしゃっていた」と言ってあげることができずに、一緒に罪を犯したのでした。
 「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われた神さまは、ご自身が人となって、わたしたちのもとに来てくださいました。主イエスは、その息遣いが聞こえるほど近くに、吐いた息が肌に触れるのを感じるほど近くに来てくださり、わたしたちのかたわらで、神さまに祈る者となってくださいました。祈ることを知らなかったわたしたちのために、先に祈り始めてくださいました。そして、わたしたちが神さまに喜ばれる者となれるように、主イエスはわたしたちの罪を身代わりになって引き受けてくださいました。主イエスはわたしたちを愛してくださり、それゆえに、わたしたちと一つになってくださって、わたしたちの喜びも悲しみも、痛みも苦しみも、涙も、恐れや不安も、すべてを味わってくださいました。
キリストがわたしたちと一つになり、わたしたちにふさわしい助け手として、わたしたちの欠けを満たしていてくださいます。ですから、神さまがわたしたちをご覧になって、「良くない」と言われることは、もうありません。わたしたちはもはや独りではないのです。わたしたちの生涯の日々に何があっても、死を迎える時にも、主が共におられます。

 

2025年5月 説教

牧師 五十嵐高博 
牧師 五十嵐悦子
神様に愛されている世界             
創世記1章1~5節


■「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 神さまは、「○○あれ」と言葉を語りながら、この世界を創造されました。考えてみますと、神さまは言葉を発することなく、黙々と世界を造ることもおできになったはずです。しかし、神さまは、黙っていられませんでした。なぜなら、神さまは、この世界にあるすべてのものを、愛を込めて創造されたからです。愛は、黙っていられません。愛は、語りかけるのです。たとえば、生まれたばかりの乳飲み子を抱いてあやす時には、たとえ乳飲み子が理解できないとしても、名前を呼び、言葉をかけると思います。同じように、神さまは、この世界とわたしたちを深く愛しておられるゆえに、言葉を語りかけながらこの世界を創造し、わたしたちにいのちを与えてくださいました。すべての人は、「わたしはあなたを愛している」という神さまの愛の語りかけを聴くために生まれたのです。  神さまが言葉をかけてくださる前は、「地は形なく、むなしく、やみが深淵のおもて」にありました。(2節、口語訳)何の意味も見いだせず、むなしく、底知れぬ闇が覆い尽くしていました。確かな拠りどころはなく、どちらを向いても希望の光は見えず、一歩を踏み出すことが恐ろしいことでした。表面上は対策を立てて取り繕うことができても、たちまちほころびが生じて、底知れぬ闇の深淵に引きずり込まれてしまうのではないかと、おびえていました。これは、神さまに出会う前のわたしたちの様子に重なります。そのような混沌の中にあったわたしたちに、神さまは「光あれ」と語りかけてくださいました。「光あれ」という御言葉は、混沌とした世界とわたしたちの生涯の日々に光をもたらし、闇を退けるという神さまの御意志の表れです。
 神さまが太陽や月と星々を創造なさったのは、天地創造の第四の日です。ですから、天地創造の最初に「光あれ」と言われて造られた「光」は、太陽のことではありません。混沌のもたらす闇と不安を退けて、わたしたちに平安をもたらす救いの光です。そして、この地とすべての人を照らすまことの光として、イエス・キリストがこの世に来てくださいました。キリストは、人間を照らす光です。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(ヨハネによる福音書1章5節、聖書協会共同訳)この世界や、わたしたちの生涯の日々に、どれほどの暗闇と混沌があったとしても、そしてその混沌がわたしたちをどれほどおびやかしているとしても、その混沌を退けて平安をもたらす神さまの創造の御業が行われています。

■「夕べがあり、朝があった。」

 わたしたちの感覚では、一日は朝から始まり、夕べを迎え、夜になって終わります。人の生涯を一日にたとえるときも、「人生のたそがれ」と表現するように、朝から始まり、夜で終わります。一日一日も、また生涯全体も、朝で始まり、夜の暗闇に包まれて終わると考えるのが、わたしたちの時間のとらえ方ではないでしょうか。その一方で、聖書は、一日を「夕べがあり、朝があった」と表現しています。一日の中には闇があるように、生涯の中にも暗闇や混沌の時があるかもしれません。けれども、わたしたちの生涯も、この世界も、夕べで終わるのではなく、朝の光の中で終わるのです。 「週の初めの日」(光が創造された日)の朝、イエス・キリストは復活されました。罪と死がわたしたちのいのちに暗い影を落としていましたが、その暗闇に復活の光が射し込みました。そして、将来、イエス・キリストが再び来てくださるときに、永遠の朝がきます。もう二度と夕べになることはなく、闇が迫ることもありません。わたしたちを最後に包むのは、闇ではなく光なのです。

 

2025年4月 説教

牧師 五十嵐高博 牧師 五十嵐悦子   主の十字架から注がれる愛 ヨハネによる福音書19章25~27節


主イエスの十字架の足元にいた人たち  主イエスが十字架につけられたとき、その足元に、四人の女性と、一人の男性の弟子がいました。主イエスの母マリア、彼女の姉妹、クロパの母マリア、マグダラのマリア、それから、「愛する弟子」と呼ばれていた弟子です。(25~26節)この五人に共通しているのは、主イエスに愛されていることだけです。主イエスは、十字架で命を捨てるほど、この五人を愛し抜いてくださいました。きっと、この五人は、「イエスさまは、わたしを愛し抜いてくださった」と感じていたのでしょう。だからこそ、十字架の主のもとに集まったのだと思います。
そして、主イエスの周りに集まった者たちを、主は、「あなたの子です」、「あなたの母です」と、互いに家族として紹介してくださいました。こうして、十字架のもとで、神さまを父とし、主イエスを兄とする新しい家族が創造されました。ここに、教会の姿があります。わたしたちも、この家族に加えられています。主イエスは、わたしたちも極みまで愛してくださり、共に生きる神さまの家族にしてくださいました。主イエスは、共に聖餐に与る兄弟姉妹を示しながら、「ここにあなたの家族がいる」とおっしゃっているのです。

「ご覧なさい。あなたの子です。」
「ご覧なさい。あなたの子です」と主イエスは言われました。もしも、わたしたちが、自分よりも若い人をすべて、自分自身の子どもや孫として愛することができれば、どんなにすばらしいでしょうか。
「見なさい。あなたの母です。」と主イエスは言われました。もしも、わたしたちが、自分よりも年長の方々をすべて、自分自身の親や祖父母として愛することができれば、どんなにすばらしいでしょうか。
実際には、そうすることができずに、わたしたちは時に悩み、傷つけ合い、苦しんでいます。そのわたしたちの罪を、主イエスは十字架で引き受けておられます。互いに愛することができないわたしたちを、主イエスは愛し抜いてくださいます。

 


主イエスは十字架の上から、「見なさい。あなたの母です」と弟子に向かって言われました。これは単に「後のことはよろしく」と依頼しているのではありません。「見なさい」「ご覧なさい」(「見よ」)という表現は、預言者が神さまの御業を語るときに用いる特別な表現です。主イエスは、十字架ですべてを与え尽くすまでわたしたちを愛してくださいました。この十字架の愛によって、わたしたちの心に愛が生まれるという奇跡が起きます。この奇跡の御業を見なさいと、主イエスは呼びかけておられます。
 ですから、わたしたちに求められているのは、なによりもまず、主イエスの愛を全身で受け止めることです。「愛さなければならない」と自分を追い詰めて、愛を絞り出そうとするのではなく、主の愛を受け取ることです。愛の源泉は、わたしたちの内にはないからです。「愛は神からでるもの」です。(ヨハネの手紙一4章7節)愛を知らないわたしたちのために、主イエスは十字架で命を捨ててくださいました。すなわち、主イエスは命を与えてくださいました。これほどまで主に愛されて、わたしたちの心にも愛が生まれます。
「そのときから、この弟子は、イエスの母を自分の家に引き取った」と書かれています。(27節)「自分の家に引き取る」と訳されている言葉は、「自分の命の一部とした」という意味です。ただ一緒に暮らす、ということではなくて、自分のいのちを与えることです。その人のために惜しみなく時間を使うことです。力を尽くして、仕えることです。十字架の主から愛を注がれて、弟子の心に愛が生まれました。
この奇跡を、主イエスは十字架で成し遂げてくださいました。


(今年度の祈祷会では、次の主日に教会学校の礼拝で説教される御言葉を聴いて祈ることにいたします。今回は、4月9日の祈祷会での学びを巻頭の御言葉として掲載しました。場所は離れていても、同じ御言葉を聴き、祈りを合わることができればと願っています。また、教会学校のためにお祈りください。)

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