和歌山教会 

今月の説教

2025年7月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  あなたを決して滅ぼさない
創世記9章8~17節

罪ある者を愛する神さま 神さまは、「地上の人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」ことをご覧になりました。神さまは「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」のでした。(創世記6章5~6節)わたしたちの罪は、神さまに御自分の美しい創造の御業を後悔させてしまっていることを、心に留めたいと思います。また、わたしたちの罪は、わたしたち自身を傷つけるだけではなくて、この世界全体に影響を及ぼしています。それゆえに、神さまは、人だけではなく、この世界のすべてをぬぐい去ることにしました。しかし、いのちが滅びてゆく様を天からご覧になって、神さまはどれほど悩まれたでしょう。
洪水の後で、神さまは「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われました。(8章21節)洪水があっても、人は変わりませんでした。それにもかかわらず、神さまは「わたしは二度とこの地上を呪うことはしない」と言われました。
 
虹の契約
「二度と滅ぼさない」という永遠の契約のしるしとして、雲の中に虹を置かれました。神さまは、「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」と約束してくださいました。(9章16節)すなわち、神さまは、わたしたちに、「虹を見るたびに契約を思い起こしなさい」と命じたのではありませんでした。わたしたちに先だって、神さまが契約を御心に留め、「あなたたちを滅ぼさない」という約束を思い起こしてくださいます。洪水が終わって人とこの地が救われたのは、神さまが箱舟にいたすべてのいのちあるものを御心に留めてくださったからでした。(創世記8章1節)そして、神さまは、思い起こした約束を、今このときも、実現してくださっています。宗教改革者のカルヴァンは、「わたしたちは本来、日々、洪水によって滅ぼされるはずであった」と語っています。それでもわたしたちが滅ぼされることなく生かされているのは、神さまがわたしたちを御心に留め、深く憐れんでくださっているからです。わたしたちが生かされているどの瞬間にも、キリストの十字架による赦しがあり、神さまの愛があります。
このように考えると、神さまが契約のしるしとして虹を選ばれたことには、深い意味があると思われます。ヘブライ語(旧約聖書の原語)では、「虹」はもともと「弓」を意味します。(英語でも虹はrainbowですが、この単語もrain〔雨〕とbow〔弓〕から成り立っています。)雨上がりの虹は、地上に置かれた弓に見えます。神さまは、人に対して二度と弓矢を使わないと約束して、弓を置かれたことを、虹は象徴しています。さらに、地上にかかる虹が弓であるとすれば、その弓につがえられた矢は天に向かって飛んでいくことになるでしょう。すなわち、わたしたちの罪に対する神さまの御怒りは、もはや地に向かって放たれることなく、天に向けて放たれることも示唆しているようです。その矢を受けてくださったのは、天にいます神さまご自身であり、イエス・キリストでした。それゆえに、わたしたちは滅びません。

 

2025年6月 説教

牧師 五十嵐高博
牧師 五十嵐悦子
  人のいのちを満たすキリスト
創世記2章15~25節

「人が独りでいるのは良くない。」  神さまは、人を創造し、「エデンの園」に住まわせました。(8節、15節)「エデン」とは「しあわせの地」を意味するそうです。エデンの園では、人が神さまの吐息を肌に感じられるほど、神さまが人の近くにいてくださいました。神さまは、御自分の御顔を、塵にすぎない人に寄せてくださり、人の鼻に命の息を吹き入れてくださいました。(7節)神さまの息吹が人の体内を満たしました。そして、人の吐息を神さまは受け止めてくださいます。こうして、神さまと人は呼吸を通わせ、思いを通わせることができました。だから、人はしあわせでした。
ところが、エデンの園にいる人を神さまがご覧になって、「良くない」と言われました。神さまはお造りになったすべてのものをご覧になって「極めて良かった」と言われたはずなのに、「良くない」ことが生じていました。良くなかったのは、「人が独りでいる」ことでした。エデンの園では神さまが人のすぐ近くにいてくださったのに、人は独りでいたのです。人は、神さまの御言葉に耳を傾けず、神さまの御名を呼ぼうとしませんでした。神さまが近くにいてくださるのに、人は神さまを無視して独りになります。これが罪です。「独り」(18節)と訳されている言葉は、「かけら」を意味します。つまり、人は、神さまと関わりなく独りになるとき、人のいのちはかけらになり、全きものではなくなっているのです。
「彼にふさわしい助け手を造ろう。」(18節、聖書協会共同訳) 神さまは、人のために動物や家畜を創造されました。動物や家畜はそれぞれ人を助ける存在ではあっても、「自分に合う助ける者」ではありませんでした。すなわち、人のいのちの欠けた部分を満たし、人と一緒に神さまの御名を呼んで祈る者ではありませんでした。
 そこで、神さまは、人(アダム)の体の一部から、もう一人の人(エバ)を創造されました。アダムにとってエバは分身とも言える特別な存在でした。ふさわしい助け手として、これ以上の存在は考えられませんでした。しかし、アダムとエバは、お互いに相手の助ける者となれませんでした。後に、エバが蛇に誘惑された時、アダムは彼女の助ける者として「神さまは『食べてはいけない』とおっしゃっていた」と言ってあげることができずに、一緒に罪を犯したのでした。
 「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われた神さまは、ご自身が人となって、わたしたちのもとに来てくださいました。主イエスは、その息遣いが聞こえるほど近くに、吐いた息が肌に触れるのを感じるほど近くに来てくださり、わたしたちのかたわらで、神さまに祈る者となってくださいました。祈ることを知らなかったわたしたちのために、先に祈り始めてくださいました。そして、わたしたちが神さまに喜ばれる者となれるように、主イエスはわたしたちの罪を身代わりになって引き受けてくださいました。主イエスはわたしたちを愛してくださり、それゆえに、わたしたちと一つになってくださって、わたしたちの喜びも悲しみも、痛みも苦しみも、涙も、恐れや不安も、すべてを味わってくださいました。
キリストがわたしたちと一つになり、わたしたちにふさわしい助け手として、わたしたちの欠けを満たしていてくださいます。ですから、神さまがわたしたちをご覧になって、「良くない」と言われることは、もうありません。わたしたちはもはや独りではないのです。わたしたちの生涯の日々に何があっても、死を迎える時にも、主が共におられます。

 

2025年5月 説教

牧師 五十嵐高博 
牧師 五十嵐悦子
神様に愛されている世界             
創世記1章1~5節


■「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 神さまは、「○○あれ」と言葉を語りながら、この世界を創造されました。考えてみますと、神さまは言葉を発することなく、黙々と世界を造ることもおできになったはずです。しかし、神さまは、黙っていられませんでした。なぜなら、神さまは、この世界にあるすべてのものを、愛を込めて創造されたからです。愛は、黙っていられません。愛は、語りかけるのです。たとえば、生まれたばかりの乳飲み子を抱いてあやす時には、たとえ乳飲み子が理解できないとしても、名前を呼び、言葉をかけると思います。同じように、神さまは、この世界とわたしたちを深く愛しておられるゆえに、言葉を語りかけながらこの世界を創造し、わたしたちにいのちを与えてくださいました。すべての人は、「わたしはあなたを愛している」という神さまの愛の語りかけを聴くために生まれたのです。  神さまが言葉をかけてくださる前は、「地は形なく、むなしく、やみが深淵のおもて」にありました。(2節、口語訳)何の意味も見いだせず、むなしく、底知れぬ闇が覆い尽くしていました。確かな拠りどころはなく、どちらを向いても希望の光は見えず、一歩を踏み出すことが恐ろしいことでした。表面上は対策を立てて取り繕うことができても、たちまちほころびが生じて、底知れぬ闇の深淵に引きずり込まれてしまうのではないかと、おびえていました。これは、神さまに出会う前のわたしたちの様子に重なります。そのような混沌の中にあったわたしたちに、神さまは「光あれ」と語りかけてくださいました。「光あれ」という御言葉は、混沌とした世界とわたしたちの生涯の日々に光をもたらし、闇を退けるという神さまの御意志の表れです。
 神さまが太陽や月と星々を創造なさったのは、天地創造の第四の日です。ですから、天地創造の最初に「光あれ」と言われて造られた「光」は、太陽のことではありません。混沌のもたらす闇と不安を退けて、わたしたちに平安をもたらす救いの光です。そして、この地とすべての人を照らすまことの光として、イエス・キリストがこの世に来てくださいました。キリストは、人間を照らす光です。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(ヨハネによる福音書1章5節、聖書協会共同訳)この世界や、わたしたちの生涯の日々に、どれほどの暗闇と混沌があったとしても、そしてその混沌がわたしたちをどれほどおびやかしているとしても、その混沌を退けて平安をもたらす神さまの創造の御業が行われています。

■「夕べがあり、朝があった。」

 わたしたちの感覚では、一日は朝から始まり、夕べを迎え、夜になって終わります。人の生涯を一日にたとえるときも、「人生のたそがれ」と表現するように、朝から始まり、夜で終わります。一日一日も、また生涯全体も、朝で始まり、夜の暗闇に包まれて終わると考えるのが、わたしたちの時間のとらえ方ではないでしょうか。その一方で、聖書は、一日を「夕べがあり、朝があった」と表現しています。一日の中には闇があるように、生涯の中にも暗闇や混沌の時があるかもしれません。けれども、わたしたちの生涯も、この世界も、夕べで終わるのではなく、朝の光の中で終わるのです。 「週の初めの日」(光が創造された日)の朝、イエス・キリストは復活されました。罪と死がわたしたちのいのちに暗い影を落としていましたが、その暗闇に復活の光が射し込みました。そして、将来、イエス・キリストが再び来てくださるときに、永遠の朝がきます。もう二度と夕べになることはなく、闇が迫ることもありません。わたしたちを最後に包むのは、闇ではなく光なのです。

 

2025年4月 説教

牧師 五十嵐高博 牧師 五十嵐悦子   主の十字架から注がれる愛 ヨハネによる福音書19章25~27節


主イエスの十字架の足元にいた人たち  主イエスが十字架につけられたとき、その足元に、四人の女性と、一人の男性の弟子がいました。主イエスの母マリア、彼女の姉妹、クロパの母マリア、マグダラのマリア、それから、「愛する弟子」と呼ばれていた弟子です。(25~26節)この五人に共通しているのは、主イエスに愛されていることだけです。主イエスは、十字架で命を捨てるほど、この五人を愛し抜いてくださいました。きっと、この五人は、「イエスさまは、わたしを愛し抜いてくださった」と感じていたのでしょう。だからこそ、十字架の主のもとに集まったのだと思います。
そして、主イエスの周りに集まった者たちを、主は、「あなたの子です」、「あなたの母です」と、互いに家族として紹介してくださいました。こうして、十字架のもとで、神さまを父とし、主イエスを兄とする新しい家族が創造されました。ここに、教会の姿があります。わたしたちも、この家族に加えられています。主イエスは、わたしたちも極みまで愛してくださり、共に生きる神さまの家族にしてくださいました。主イエスは、共に聖餐に与る兄弟姉妹を示しながら、「ここにあなたの家族がいる」とおっしゃっているのです。

「ご覧なさい。あなたの子です。」
「ご覧なさい。あなたの子です」と主イエスは言われました。もしも、わたしたちが、自分よりも若い人をすべて、自分自身の子どもや孫として愛することができれば、どんなにすばらしいでしょうか。
「見なさい。あなたの母です。」と主イエスは言われました。もしも、わたしたちが、自分よりも年長の方々をすべて、自分自身の親や祖父母として愛することができれば、どんなにすばらしいでしょうか。
実際には、そうすることができずに、わたしたちは時に悩み、傷つけ合い、苦しんでいます。そのわたしたちの罪を、主イエスは十字架で引き受けておられます。互いに愛することができないわたしたちを、主イエスは愛し抜いてくださいます。

 


主イエスは十字架の上から、「見なさい。あなたの母です」と弟子に向かって言われました。これは単に「後のことはよろしく」と依頼しているのではありません。「見なさい」「ご覧なさい」(「見よ」)という表現は、預言者が神さまの御業を語るときに用いる特別な表現です。主イエスは、十字架ですべてを与え尽くすまでわたしたちを愛してくださいました。この十字架の愛によって、わたしたちの心に愛が生まれるという奇跡が起きます。この奇跡の御業を見なさいと、主イエスは呼びかけておられます。
 ですから、わたしたちに求められているのは、なによりもまず、主イエスの愛を全身で受け止めることです。「愛さなければならない」と自分を追い詰めて、愛を絞り出そうとするのではなく、主の愛を受け取ることです。愛の源泉は、わたしたちの内にはないからです。「愛は神からでるもの」です。(ヨハネの手紙一4章7節)愛を知らないわたしたちのために、主イエスは十字架で命を捨ててくださいました。すなわち、主イエスは命を与えてくださいました。これほどまで主に愛されて、わたしたちの心にも愛が生まれます。
「そのときから、この弟子は、イエスの母を自分の家に引き取った」と書かれています。(27節)「自分の家に引き取る」と訳されている言葉は、「自分の命の一部とした」という意味です。ただ一緒に暮らす、ということではなくて、自分のいのちを与えることです。その人のために惜しみなく時間を使うことです。力を尽くして、仕えることです。十字架の主から愛を注がれて、弟子の心に愛が生まれました。
この奇跡を、主イエスは十字架で成し遂げてくださいました。


(今年度の祈祷会では、次の主日に教会学校の礼拝で説教される御言葉を聴いて祈ることにいたします。今回は、4月9日の祈祷会での学びを巻頭の御言葉として掲載しました。場所は離れていても、同じ御言葉を聴き、祈りを合わることができればと願っています。また、教会学校のためにお祈りください。)

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