2025年5月 説教
牧師 五十嵐高博 神様に愛されている世界
創世記1章1~5節
■「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 神さまは、「○○あれ」と言葉を語りながら、この世界を創造されました。考えてみますと、神さまは言葉を発することなく、黙々と世界を造ることもおできになったはずです。しかし、神さまは、黙っていられませんでした。なぜなら、神さまは、この世界にあるすべてのものを、愛を込めて創造されたからです。愛は、黙っていられません。愛は、語りかけるのです。たとえば、生まれたばかりの乳飲み子を抱いてあやす時には、たとえ乳飲み子が理解できないとしても、名前を呼び、言葉をかけると思います。同じように、神さまは、この世界とわたしたちを深く愛しておられるゆえに、言葉を語りかけながらこの世界を創造し、わたしたちにいのちを与えてくださいました。すべての人は、「わたしはあなたを愛している」という神さまの愛の語りかけを聴くために生まれたのです。
神さまが言葉をかけてくださる前は、「地は形なく、むなしく、やみが深淵のおもて」にありました。(2節、口語訳)何の意味も見いだせず、むなしく、底知れぬ闇が覆い尽くしていました。確かな拠りどころはなく、どちらを向いても希望の光は見えず、一歩を踏み出すことが恐ろしいことでした。表面上は対策を立てて取り繕うことができても、たちまちほころびが生じて、底知れぬ闇の深淵に引きずり込まれてしまうのではないかと、おびえていました。これは、神さまに出会う前のわたしたちの様子に重なります。そのような混沌の中にあったわたしたちに、神さまは「光あれ」と語りかけてくださいました。「光あれ」という御言葉は、混沌とした世界とわたしたちの生涯の日々に光をもたらし、闇を退けるという神さまの御意志の表れです。
神さまが太陽や月と星々を創造なさったのは、天地創造の第四の日です。ですから、天地創造の最初に「光あれ」と言われて造られた「光」は、太陽のことではありません。混沌のもたらす闇と不安を退けて、わたしたちに平安をもたらす救いの光です。そして、この地とすべての人を照らすまことの光として、イエス・キリストがこの世に来てくださいました。キリストは、人間を照らす光です。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(ヨハネによる福音書1章5節、聖書協会共同訳)この世界や、わたしたちの生涯の日々に、どれほどの暗闇と混沌があったとしても、そしてその混沌がわたしたちをどれほどおびやかしているとしても、その混沌を退けて平安をもたらす神さまの創造の御業が行われています。
■「夕べがあり、朝があった。」 わたしたちの感覚では、一日は朝から始まり、夕べを迎え、夜になって終わります。人の生涯を一日にたとえるときも、「人生のたそがれ」と表現するように、朝から始まり、夜で終わります。一日一日も、また生涯全体も、朝で始まり、夜の暗闇に包まれて終わると考えるのが、わたしたちの時間のとらえ方ではないでしょうか。その一方で、聖書は、一日を「夕べがあり、朝があった」と表現しています。一日の中には闇があるように、生涯の中にも暗闇や混沌の時があるかもしれません。けれども、わたしたちの生涯も、この世界も、夕べで終わるのではなく、朝の光の中で終わるのです。 「週の初めの日」(光が創造された日)の朝、イエス・キリストは復活されました。罪と死がわたしたちのいのちに暗い影を落としていましたが、その暗闇に復活の光が射し込みました。そして、将来、イエス・キリストが再び来てくださるときに、永遠の朝がきます。もう二度と夕べになることはなく、闇が迫ることもありません。わたしたちを最後に包むのは、闇ではなく光なのです。 |
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2025年4月 説教
牧師 五十嵐高博 主の十字架から注がれる愛 ヨハネによる福音書19章25~27節
■主イエスの十字架の足元にいた人たち 主イエスが十字架につけられたとき、その足元に、四人の女性と、一人の男性の弟子がいました。主イエスの母マリア、彼女の姉妹、クロパの母マリア、マグダラのマリア、それから、「愛する弟子」と呼ばれていた弟子です。(25~26節)この五人に共通しているのは、主イエスに愛されていることだけです。主イエスは、十字架で命を捨てるほど、この五人を愛し抜いてくださいました。きっと、この五人は、「イエスさまは、わたしを愛し抜いてくださった」と感じていたのでしょう。だからこそ、十字架の主のもとに集まったのだと思います。
そして、主イエスの周りに集まった者たちを、主は、「あなたの子です」、「あなたの母です」と、互いに家族として紹介してくださいました。こうして、十字架のもとで、神さまを父とし、主イエスを兄とする新しい家族が創造されました。ここに、教会の姿があります。わたしたちも、この家族に加えられています。主イエスは、わたしたちも極みまで愛してくださり、共に生きる神さまの家族にしてくださいました。主イエスは、共に聖餐に与る兄弟姉妹を示しながら、「ここにあなたの家族がいる」とおっしゃっているのです。
■「ご覧なさい。あなたの子です。」
「ご覧なさい。あなたの子です」と主イエスは言われました。もしも、わたしたちが、自分よりも若い人をすべて、自分自身の子どもや孫として愛することができれば、どんなにすばらしいでしょうか。
「見なさい。あなたの母です。」と主イエスは言われました。もしも、わたしたちが、自分よりも年長の方々をすべて、自分自身の親や祖父母として愛することができれば、どんなにすばらしいでしょうか。
実際には、そうすることができずに、わたしたちは時に悩み、傷つけ合い、苦しんでいます。そのわたしたちの罪を、主イエスは十字架で引き受けておられます。互いに愛することができないわたしたちを、主イエスは愛し抜いてくださいます。
主イエスは十字架の上から、「見なさい。あなたの母です」と弟子に向かって言われました。これは単に「後のことはよろしく」と依頼しているのではありません。「見なさい」「ご覧なさい」(「見よ」)という表現は、預言者が神さまの御業を語るときに用いる特別な表現です。主イエスは、十字架ですべてを与え尽くすまでわたしたちを愛してくださいました。この十字架の愛によって、わたしたちの心に愛が生まれるという奇跡が起きます。この奇跡の御業を見なさいと、主イエスは呼びかけておられます。 ですから、わたしたちに求められているのは、なによりもまず、主イエスの愛を全身で受け止めることです。「愛さなければならない」と自分を追い詰めて、愛を絞り出そうとするのではなく、主の愛を受け取ることです。愛の源泉は、わたしたちの内にはないからです。「愛は神からでるもの」です。(ヨハネの手紙一4章7節)愛を知らないわたしたちのために、主イエスは十字架で命を捨ててくださいました。すなわち、主イエスは命を与えてくださいました。これほどまで主に愛されて、わたしたちの心にも愛が生まれます。 「そのときから、この弟子は、イエスの母を自分の家に引き取った」と書かれています。(27節)「自分の家に引き取る」と訳されている言葉は、「自分の命の一部とした」という意味です。ただ一緒に暮らす、ということではなくて、自分のいのちを与えることです。その人のために惜しみなく時間を使うことです。力を尽くして、仕えることです。十字架の主から愛を注がれて、弟子の心に愛が生まれました。 この奇跡を、主イエスは十字架で成し遂げてくださいました。 (今年度の祈祷会では、次の主日に教会学校の礼拝で説教される御言葉を聴いて祈ることにいたします。今回は、4月9日の祈祷会での学びを巻頭の御言葉として掲載しました。場所は離れていても、同じ御言葉を聴き、祈りを合わることができればと願っています。また、教会学校のためにお祈りください。) |
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