和歌山教会 

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洗礼を志すに当たって 

S.N.
私が和歌山教会に通い始めたのは、数年前に夫と共に夕礼拝に参加した時からです。それ以前、小学生の頃に担任の先生がクリスチャンで、Y町にある教会に連れて行っていただいたことがありました。

幼少の頃から、何かあるたびに神仏やご先祖様に祈る習慣がありました。しかし、私は常に人と自分を比較し、人目を気にしながら過ごしておりました。その結果、人を好意的に見ることができず、被害妄想的になることも多々ございました。

結婚後、子育てや仕事、人間関係などで多くの困難に直面し、生活も苦しい時期が続きました。助けを求めて占いに頼ることもありましたが、それは一時的な安堵を得るに過ぎず、真の救いにはなりませんでした。むしろ、占いが心をさらに追い詰め、病む原因となってしまったのです。心の病を抱えながら自己反省を試みましたが、改善されることなく、人との比較や人目を気にする生活が続きました。周囲の人々を否定的に見ることが増え、子供にも優しく接することができない辛い日々でした。そんな中で、夫が絶えず声をかけ、支えてくれました。今振り返れば、神様が夫を通じて私を導いてくださっていたのだと感じています。

教会に通うようになってから、イエス様の温かい御心に触れることができました。イエス様が常にそばにいてくださると感じることで、悩みを打ち明けられるようになり、神様が見守ってくださっているという平安の中で、日々の生活が過ごしやすくなりました。これまで神様を知らずにただ頑張ることで心を病んでしまったことを、今改めて振り返ることができます。

もちろん、今でも災害や辛い出来事がなくなったわけではありませんが、それも全て神様のご計画の中にあると感じています。神様の導きと救いが常にあると信じており、神様はいつも私を呼び戻してくださるのだという安心感を持っています。そのため、夫から「洗礼を受けよう」と勧められたときには、迷うことなく受け入れることができました。

今では、一週間を神様の導きのもとで過ごす喜びを感じております。これからの人生も、家族と共に神様の導きに従い、信仰生活を歩んでいきたいと願っています。

C.U.
私は、天理教と仏教の影響を受けて育ちました。天理教の天地創造の教えには、キリスト教との共通点を感じることがありました。妻と同じ信仰と価値観を共有し、これからも共に生きていくために、私は洗礼を受ける決意をしました。

聖書には、自分だけの世界に生きることが罪であると記されています。私は、自己中心的ではなく、仲間と共に協力し合いながら生きることを望んでいます。イエス様の十字架と復活は、私たちを自己中心的な生き方から救い、神の民として共に生きる道を示してくれると信じています。

牧師の教えを通じて、最適なタイミングで洗礼を受けることができたことに感謝しています。今後は、イエス様をより深く理解し、その御姿を心に近く感じられるよう努めていきたいと思います。また、100歳時代を見据えた地域の課題にも取り組み、仲間と共にその改善に努めたいと思います。

Y.I.
私の祖父母と両親は和歌山教会の会員であり、私は教会の幼稚園を卒園しました。幼少期には教会学校には通わず、結婚後に和歌山を離れ、九州や関西を転々としました。2歳の息子が事故に遭った際、周囲から祖先の祟りや逆縁の罪について指摘され、驚きを感じました。

息子の事故から年月が経ち、和歌山に戻ることができ、母の訪問聖餐を通じて、再び教会とのつながりを得ることができました。和歌山に戻ってからの20年はあっという間で、家族や地域の人々との関わりの中で過ごしてきました。現在の不安な状況においても、礼拝での「恐れるな」という言葉や母の言葉を思い出し、心安らかに過ごすことを願っています。

Y.N.
私が教会に通い始めたのは、毎日が不安で前を向くことすらできなかった頃です。父が語る神様の存在に興味を持ち、週に一度教会に通い、牧師の説教を聞く中で、神様の存在を感じるようになりました。イエス様が私のよりどころであることを知り、心が安らぎました。

私は自分を大きく見せようと努力し、その結果、プレッシャーに押しつぶされることもありました。しかし、イエス様の十字架の犠牲と、神様の大きな愛に触れることで、心の平安を得ることができました。現在は、イエス様の愛を信じ、神様に感謝しています。これからも教会での聖餐を通じて、イエス様とのつながりをさらに深めていきたいと考えています。

S.U.
私は2022年7月に和歌山教会に伺うようになりました。それ以前は日本基督教団大阪教会に通っていましたが、転居を機に和歌山教会に通うようになりました。長年、両親との関係に悩んでいましたが、カナダでの留学を通じてキリスト教に触れ、その温かさを感じました。

私は幾つかの持病があり、多くの誤解や困難を経験してきました。しかし、教会の礼拝を通じて、イエス様と深く向き合うことができ、祈りを通じて他者を思いやる気持ちを持つことができるようになりました。

自分と同じような苦しみを抱える人たちに、イエス様の話を伝えたいと願っています。