
この詩を読むと、
遠い日の、風のやわらかい午後を思い出します。
人と人とのあいだに、
なんとも言えないものが漂っていた、ある日のこと。 重吉の言う「美しくみよう」ということばは、
なにかを決めつけたり、断定したりすることではなく、
ほんの少し、心の角度を変えてみること。
目をこらせば、
冷たく思えた沈黙のあいだにも、
やわらかな光が宿っているかもしれない。
そんな予感のようなものが、ふっと胸をよぎるのです。 わたしたちはときに疲れます。
関わることに、誤解されることに、
わかり合えないままでいることに。
それでもなお、重吉のことばは、
そっと肩に手を置くように語りかけてきます。
「疲れてはならない」と。 彼はキリストを信じた人でした。
結核を患い、死と隣り合いながらも、
その眼差しは、ひとよりも深く、
世界の奥にひそむ光を見つめていたように思います。

ある技能実習生の静かな出会い 知らぬ間に、日本に来てから四年の月日が流れていました。私は、技能実習生として、ただ与えられた仕事に向き合いながら、この国の四季の中に、自分の影を重ねていました。
来日したばかりの頃の私は、右も左もわからない、若いひとりの労働者にすぎませんでした。高等学校を卒業して間もない私にとって、日本はあまりに遠く、そして静かな国でした。その静けさはときに優しく、けれどときに、心の奥を締めつけるような冷たさをもっていました。
言葉が通じないことは、毎日のように壁となって私の前に立ちました。同僚とのあいさつすら、戸惑いと不安のなかで覚えていきました。
寮に帰れば、誰も話す相手のいない夜。ベトナムの家族に電話をかけたくても、時差と仕事の疲れで、やがて私は言葉ではなく、沈黙とともに過ごすことを覚えていきました。
ある日、仕事のあとで、ふと近くの神社に足が向きました。信仰のためではありません。ただ、ほんの少しでも静かな空気に包まれたかったのです。
夕暮れの境内に、ひとりの老人がベンチに座っておられました。その姿は、まるでこの土地の時間そのもののように穏やかで、やがて私に気づくと、風のようなまなざしをこちらに向けてくれました。
私は、おずおずと近づき、つたない日本語で、少しずつ、自分のことを話しはじめました。
老人は、私の拙い言葉にも惑うことなく、ただ静かにうなずきながら、耳を傾けてくださいました。まるで、「わかる」ということを超えて、「受けとめる」という深さで私に向き合ってくれていたのです。
やがて、その方は語りはじめました。かつての日本のこと、時代の移ろい、人々の心の変化。それは、特定の宗教の教えでもなく、説教でもない、ひとつの人間が、もうひとつの命に語りかけるような、やさしい時間でした。
私もまた、自分のふるさとのこと、家族のこと、そして「この地で学び、何かを持ち帰りたい」という夢を話しました。
言葉にならない想いも、沈黙の中で少しずつ溶けてゆき、言葉を超えたまなざしと、微笑と、ただそこにある時間のなかで、私たちは、確かにつながっていたのです。
そこには、宗教や国籍や世代のちがいを超えて、「ともにある」ということの橋が、たしかに架かっていました。 その方は、なにかを「教える」ことをしませんでした。ただ、そこにいて、静かに、ゆっくりと「生きる」ということを示してくれました。 別れ際、その方は私の手をそっと握り、「どこにいても、心のぬくもりだけは、忘れないでくださいね」と言いました。
その言葉は、技能実習生としての日々の中で、いまも私の胸の深くに、小さな灯火のように灯り続けています。 あの出会いは、神とも仏とも名づけえぬ「大いなるもの」が、異国の地でさまよう私に、そっと差し出してくれた贈り物でした。
それ以来、私は週末ごとに神社に足を運ぶようになり、その方とともに、境内を掃き、手水舎を磨きました。ただ、それだけのことなのに、そこに特定の信仰を超えた祈りのような清らかさが宿っていました。
私は、身体でゆっくりと学びました。「清める」とは、誰かを裁くことではなく、自分自身の心を澄ませるということなのだ、と。 言葉ではなく、仕草ひとつで伝わるぬくもりが、そこにはたしかにありました。 あの出会いは、私だけの物語ではなく、人と人とがつながる、ひとつのしるしだったのです。 けれど、最近は、その方の姿を見かけなくなりました。神社を訪れるたびに、私はあの木のベンチを探してしまいます。ベンチはそこにありますが、あの方の姿だけが、もう見えません。そしてある日、「あの方は、もう帰らぬ人となった」と、静かに知らされました。
言葉にされぬ悲しみが、深い森のように胸の中を満たしていきました。私の心には、そっと祈るような気持ちが湧いてきます。どうか今も、どこかで、風となってこの神社を見守っておられますように――。 気づけば、その方は私にとって、「日本のおじいさん」になっていました。血のつながりではないけれど、魂のどこかで結ばれた、たったひとりの大切な人でした。


思いがけない光の交差点
――歎異抄とパウロ、信仰のひびきあい
このページをひらいてくださった方へ。 ここで、ひとつの思いを分かち合えたらと思います。
異なる光が交わる場所で、私たち自身の足元を見つめなおす。
そんなひとときを、ともに過ごしてみませんか。
キリスト教の歩みが西洋から伝えられる中で、日本の精神的な風土とどこか噛み合わないまま、誤解やすれ違いが生じてきた歴史があるように思います。
でも、本当に福音の光を受けとめるためには、自分の心の井戸の深さを見つめることから始まるのかもしれません。
「わたしたちは、見ることによってではなく、信仰によって歩んでいるのです。」(二コリント5:7)
日本のキリスト者、内村鑑三や遠藤周作は、『歎異抄』という一冊の中に、福音と響きあう光を見出しました。
それは、私たちの言葉で語られているからこそ、魂の奥深くまで届いたのかもしれません。 『歎異抄』は仏教の書物ですが、その問いかけ――「なぜ私たちは苦しいのか」「ほんとうに安心できる場所はあるのか」――には、キリスト教が語る福音の核心とも通じる響きがあります。 「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」 この言葉は、人間の限りない弱さと向き合う視点です。
それは、パウロが語る「すべての人は罪を犯した」(ローマ3章)という言葉と、どこか深く重なっているように思えます。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人の中で最たる者です。」(一テモテ1:15) ある晩、教会の静けさの中で、一人の青年がぽつりと漏らしました。 「ぼくには立派なことは何一つできません。聖書も読みきれず、祈ってもすぐに心が離れていってしまうんです。そんなぼくが、本当に神さまに受け入れられているなんて、信じられません。」 その言葉には、どこか『歎異抄』第九条に記された問い――「念仏を称えていても、踊り上がるような歓びの心が湧いてこない」と悩んだ唯円の声と同じ、揺らぎがにじんでいました。 信じようとしているのに、喜びが実感として伴わない――その違和感と孤独。
けれども、だからこそ見えてくる光もあるように思います。 私は、聖書を静かに開き、心の中でひとつの言葉を思い浮かべました。 「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのです。」(ローマ3:28) 誰かに教える資格があるわけではありません。
ただ、同じように揺れながら歩んでいる者として、こう思うのです。

「恵のとき―病気になったら」 晴佐久昌英
これまで、幾度となく読み返してきた晴佐久昌英神父の『病気になったら』。けれど、今回の入院で、私は初めて、その言葉を「自分のこと」として受け取ることになりました。ベッドに横たわりながら、静かにページをめくる。そこに綴られたひとつひとつの言葉が、まるで私に向かって語りかけてくるようでした。これまで他人ごとのように思っていた「病」も、今では、この身に沁みてわかります。痛みも、不安も、孤独も――すべてが、自分の中に確かにあるものとして。だからこそ、「泣いていいんだよ」「甘えていいんだよ」という言葉が、こんなにもあたたかく、深く心に届いたのでしょう。ただ読むのではなく、その言葉の中に、自分の姿を重ねながら。私は今、『病気になったら』という詩を、まったく新しい意味で読んでいます。
『病気になったら』
病気になったら、どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術が怖いといって涙ぐみ
死にたくないよといって、めそめそしよう
恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを
病気になったら、おもいきり甘えよう
あれが食べたいといい
こうしてほしいと頼み
もうすこしそばにいてとお願いしよう
遠慮も気づかいもいらない
正直に、わがままに自分をさらけだし
赤ん坊のようにみんなに甘えよう
またとないチャンスをもらったのだ
思いやりと まごころに触れるチャンスを
病気になったら、心ゆくまで感動しよう
食べられることがどれほどありがたいことか
歩けることがどんなにすばらしいことか
新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか
忘れていた感謝の心を取りもどし
この瞬間に自分が存在しているという神秘、
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう
またとないチャンスをもらったのだ
いのちの不思議に、感動するチャンスを
病気になったら、すてきな友達をつくろう
同じ病を背負った仲間、
日夜看病してくれる人、
すぐに駆けつけてくれる友人たち
義理のことばも、儀礼の品もいらない
黙って手を握るだけですべてを分かち合える
あたたかい友達をつくろう
またとないチャンスをもらったのだ
神様がみんなを結んでくれるチャンスを
病気になったら、必ず治ると信じよう
原因がわからず長引いたとしても
治療法がなく悪化したとしても
現代医学では治らないといわれたとしても
あきらめずに道をさがし続けよう
奇跡的に回復した人はいくらでもいる
できるかぎりのことをして、信じて待とう
またとないチャンスをもらったのだ
信じて待つよろこびを生きるチャンスを
病気になったら、安心して祈ろう
天にむかって思いのすべてをぶちまけ
どうか助けてくださいと必死にすがり
深夜、ことばを失ってひざまづこう
この私を愛して生み、慈しんで育て
わが子として抱き上げるほほえみに
すべてをゆだねて手を合わせよう
またとないチャンスをもらったのだ
まことの親である神に出会えるチャンスを
そしていつか、病気が治っても治らなくても
みんなみんな、流した涙の分だけ優しくなり
甘えとわがままをこえて自由になり
感動と感謝によって大きくなり
友達に囲まれて豊かになり
天の親に抱きしめられて
自分は神の子だと知るだろう
病気になったら、またとないチャンス到来
病のときは恵みのとき
最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、
親切で柔和であること。 老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを
少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。 こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。 手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。 すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友、われなんじを見捨てじ」と。 人生の終わりに近づくその年齢においてさえ、
彼女は「待つ」ということをやめませんでした。
目に見えぬ神の来臨を、
魂の深い静けさのうちに、見つめていたのでしょう。 わたしたちの時代にも、
そういう「祈りの人」が、
ひそやかに、しかし確かに、
この世を支える見えない柱となっている気がいたします。 思い出すのは、
かつて上智大学の学長でもあった
ヘルマン・ホイヴェルス神父の残した小さな詩――
「最上のわざ」と題された、その静かな一篇です。


病者の祈り 大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ 以上の詩は、ニューヨークリハビリテーション研究所の壁に掲げられているものです。もともとは病室の壁に記されていたものが、後に受付の壁に移されたと伝えられています。作者については不詳とされることが多いのですが、渡辺和子さんは著書『幸せのありか』(PHP文庫)の中で、南北戦争(1860〜1865)で負傷し入院していたロイ・カンパネラという人物の作と紹介しています。ただ、その出典の詳細については明らかではありません。
私たちの祈りは、ときに沈黙の中に吸い込まれてゆきます。
けれどその沈黙の向こうで、神はすでに、
私たちの願いを、もっと深く、もっと真実に聞いておられたのです。 人は、願いがそのまま叶うときよりも、
それを超えた“見えない贈り物”に出会ったとき、
ほんとうに生かされていることに気づきます。 この詩は、傷ついた者のつぶやきでありながら、
どこか、イエスがゲツセマネで祈った言葉と重なります。
「わたしの願いではなく、あなたの御心がなりますように」――それは、敗北ではなく、信頼への跳躍なのです。
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