和歌山教会 

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――逝者如斯夫、不舎昼夜――

  •      ゆくものは かくのごときかな、ちゅうやをおかず。
 

 
 

先日、フェイスブックに載せられていた一枚の写真に出会った。
洗礼を授ける彼の姿。
その前にひかえる、ひとりの若い青年の後ろ姿。
その青年は、まるで昔の彼自身であるように見えた。
あの日の彼に、もう一度めぐり逢ったような気がして、胸が熱くなった。
その時、心に浮かんだのは、あの一句であった。
「逝者如斯夫、不舎昼夜」――。
川の流れを見つめた孔子の嘆きのことば。
水は、一度流れ去れば戻らない。
時もまた、そうである。
時は、絶え間なく流れつづける。
けれども、その流れのただ中で、
福音は、静かに、新しいいのちへと手渡されてゆく。
思いは、自然に彼との出会いの始まりへと遡っていった。
湊川教会――のちの月見山教会。
牧師のいない、小さな群れ。
ひとりの青年が、キリストとの出会いを切実に求めて現れた。
私は、何を語ってよいかわからなかった。
ただ共にいて、語り合い、ときに雑談をした。
それだけのことであった。

やがて彼は、洗礼を受けたいと言った。
牧師のいない私は迷い、同僚の教師を訪ねた。
その教師は神戸の改革派教会に彼を招き、牧師へとつないでくれた。
こうして彼は神学校に学び、祈りと支えに導かれて牧師の道を歩んでいった。
そして、湊川教会で出会った女性と結婚した。
その結婚式で、私は司会を務めさせていただいた。
幾十年が過ぎた。
今、彼は岐阜の町で、多くの人々に慕われる牧者として立っている。
あの写真の青年は、若き日の彼と重なり、
同時に、次の世代、さらにその先へとつながる姿にも見えた。
ふしぎなことに、まず心に浮かんだのは聖書の言葉ではなく、『論語』の一句であった。
日本人としての私の根にある文化が、そう思い起こさせたのだろう。
「逝者如斯夫、不舎昼夜」。
流れゆく川の水のように。
吹きわたる風のように。
時はとどまらない。
けれども、その流れのただ中で、
神の恵みは絶えることなく、
静かに、静かに、受け継がれてゆく。
 
 
 
 
 
           当時の湊川教会
                                 

ねがわくば この浦上をして  世界最後の原子野たらしめたまえ

――永井 隆

 

浦上の丘に 鐘は鳴る


2025年8月9日。
夏の陽はやわらかく、白い雲がゆるやかに丘を渡る。
赤煉瓦の浦上天主堂が、光を受けて立つ。

かつて一瞬にして崩れ落ち、
鐘は焼けただれた大地に沈んだ。
幾世代の迫害と沈黙を耐え抜き、
ようやく与えられた祈りの場を再び失った地――浦上。
瓦礫の中に、白衣をまとい十字架を仰ぐ医師がいた。
永井隆、受洗名パウロ。
病を抱え、残された時を知りつつ、
倒れゆく者に手を差し伸べた。
末期の白血病と闘いながら、
失われた鐘を掘り起こし、その修復を願った。
やがてその響きは、街の再生と祈りの証しとなる。
彼が遺した祈り――
「ねがわくば、この浦上をして
 世界最後の原子野たらしめたまえ。」
八十年後。
四代続く信仰の家に生まれた石破首相が、
同じ丘に立ち、静かにその祈りを口にした。
風が吹き抜け、数年前にこの地を訪れた
教皇フランシスコの声が、鐘の音に溶ける。
「平和は、言葉ではなく行いによって築かれる」――
その呼びかけとともに。
永井は四十三年の生涯を閉じた。
葬儀の日、天主堂には人々の祈りが満ち、
陽光が赤煉瓦を染め、鐘は街を包み込んで空へ昇った。
わたしたちもまた、
この地を「最後の原子野」とするために、
日ごとの赦しと和解を、歩みの中に重ねてゆこう。

 

太き骨は 先生ならむ
そのそばに
小さきあたまの骨 あつまれり
――正田篠枝



この地には
言葉の届かぬ祈りが
土の奥に しずかに しずかに眠っている
太き骨は 先生ならむ
そのそばに
小さきあたまの骨 あつまれり
――正田篠枝
今年も八月がめぐり
ひろしまの空に 祈りの鐘が鳴った
平和記念式典――
その壇上に立った石破茂首相は
この短歌を 二度 くりかえし
まるで その場の空気に しみ込ませるように
静かに 読みあげたと
信仰を語ることなく
しかし その声には
言葉にされなかった祈りがあった
キリスト者の
深い祈りが かすかに宿っていた
火の空をかけぬけて
何も知らぬままに 倒れた子どもたちがいた
身をよじるようにして
その身を 子らの上に重ねた 先生がいた
言葉では とても 届かない
声では とても 追いつかない
だから
骨だけが 今も 沈黙のなかで 教えている
死んではならない
生きよ――
そんな命令ではなかった
ただ
ひとつの身が ひとつの身を かばうように
咄嗟に 差し出された そのひとみに
人の魂の いちばん深いところの光が
たしかに 宿っていた
碑は語らない
だが あの短歌は 今も風のなかにある
千羽鶴のすき間を通って
焼けただれた教室の 跡地の上を
今日も どこかで だれかの胸に 降っている
――あなたは
この骨のそばに ひざまずいて
いのちというものの 深さを
ひととき 見つめてみたことがあるだろうか

 

あいだに吹く風

人と人とのあひだを
美しくみよう
わたしと人とのあひだを
うつくしくみよう
疲れてはならない
――八木重吉「ねがひ」

 
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この詩を読むと、
遠い日の、風のやわらかい午後を思い出します。
人と人とのあいだに、
なんとも言えないものが漂っていた、ある日のこと。
重吉の言う「美しくみよう」ということばは、
なにかを決めつけたり、断定したりすることではなく、
ほんの少し、心の角度を変えてみること。
目をこらせば、
冷たく思えた沈黙のあいだにも、
やわらかな光が宿っているかもしれない。
そんな予感のようなものが、ふっと胸をよぎるのです。
わたしたちはときに疲れます。
関わることに、誤解されることに、
わかり合えないままでいることに。
それでもなお、重吉のことばは、
そっと肩に手を置くように語りかけてきます。
「疲れてはならない」と。
彼はキリストを信じた人でした。
結核を患い、死と隣り合いながらも、
その眼差しは、ひとよりも深く、
世界の奥にひそむ光を見つめていたように思います。
 

素朴な琴

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだらう
――八木重吉

 

聖書は語ります。
「神は光であり、そのうちには いっさいの暗いところがありません。」
(ヨハネの手紙 第一 1章5節)
神の光は、
たしかに、いっさいの暗いところのない、
まことのひかりです。
けれども、それは、
真夏の太陽のように、
すべてを強く照らし出すような光ではありません。
もっと、ちがう―― たとえば、
夕暮れどきの 木洩れ日のように、
やわらかく、あたたかく、
ふと 私たちのそばに しのびよってくるような光。
声もなく、ことばもなく、
ただ そこに在って、
私たちの心を やさしく包み込んでくれる、
そんな神の光です。
神は、
強く導こうとはされません。
ただ 私たちが そのひかりに気づき、
そっと一歩を踏み出すのを、
静かに待っていてくださる方です。
だから――
あなたも、
そのひかりの中へ、一歩、踏み出してみませんか。
ことばも、うたもなくていい。
ただ、あなたの人生が――
しずけさのなかで ひとりでに 鳴りはじめるように。
神のひかりにふれて、
気づかぬうちに、
あなたが あなたとして 生きはじめるように。
――そう、静かに、静かに。

しずけさのなかで
ひとりでに
琴がなりはじめるように
そんなふうに
わたしのこころが
神さまをおもいだす
八木 重吉

あなたは代わってくださったのだ
どうしてこの私ではなくてあなたが?
どうしてこの私ではなくてあなたが?
あなたは代わってくださったのだ
あなたは代わってくださったのだ
                          神谷美恵子


 

二十一歳の神谷美恵子さんが、
はじめてハンセン病の療養所を訪ねられたときのことです。
目を失い、声を失い、指を失いながらも、
なお、静かに生きておられる方々の姿が、そこにありました。
そのとき彼女は、胸の深いところから、こんな詩を紡がれたのです。 わたしたちは、苦しみを前にすると、ときに目をそらし、
心を閉ざしてしまいたくなります。
けれども神谷さんは、その沈黙のなかに、
「代わってくださった方」の面影を見たのです。
もし、誰かの痛みの中に、
あなたは代わってくださったのだ――
そう思うことができたなら、
それは、愛のはじまりではないでしょうか。
その気づきは、風のように、そっと心に吹いてくる。
祈りのように、静かに。

ぞうきん

こまった時に思い出され
用がすめばすぐに忘れられる
ぞうきん
台所のすみに小さくなり
むくいを知らず
朝も夜もよろこんで仕える
ぞうきんになりたい

                  河野進
和歌山に生まれ、神学を学び玉島教会で牧師となる。賀川豊彦のすすめにより岡山ハンセン病療養所での慰問伝道に半世紀以上を捧げ、さらにインド救ライセンター設立やマザー・テレサの「おにぎり運動」に尽力した。その歩みは、愛と奉仕に生きる一筋の川のようであった。

 

最後の一行――ぞうきんになりたい この一言にこそ、河野さんの全生涯が宿っています。人にではなく、神様に仕えたい。役目を終えれば、そっと捨てられる事も厭わない。誰の栄光にも与らず、ただ愛の温もりだけを残して、沈黙の内に消えて行きたい。  
そう祈った者の言葉は、密やかであるが故に、深く、重いのです。私はこの詩を読む度に、神様の声が「静かな細い声」である事を、もう一度教えられます。  
時代がどんなに喧騒に満ちていても、福音はいつも、小さな者の中に宿ります。そして「雑巾のように生きる」その祈りの中に、イエス様の眼差しが、そっと息づいているのだと思います。
誰の心にも、一つの痛みがあります。自分の献げた物が、
報われないという寂しさ。
誰かの為に尽くした事が、
まるで無かったかのように忘れられて行く、
あの空しさ。
けれど河野さんは、その忘れられる事にすら、喜びを見ています。
「報いを知らず 朝も夜も喜んで仕える」  ここには、イエス様の姿があります。
エルサレムの片隅で、弟子達の足を洗い、
何も語らず、ただ水音とタオルの温もりだけが残る、あの夜の姿が。
 私はこの詩を読む度に、神様の声が「静かな細い声」である事を、
もう一度教えられます。

裏を見せ 表を見せて 
散るもみじ  
良寛

――もみじの祈りに聴く  秋の風に揺れる一葉のもみじ。
 赤く染まった表も、まだ色づかぬ裏も、
 惜しげもなく、すべてをさらして
 ひらひらと、天から落ちてゆきます。
 裏も、表も――。
 それはまるで、人が人として生きるとき、
 どうしても隠してしまう心の陰影を、
 ありのままに見せることの大切さを語っているようです。
 美しいだけではない。
 汚れも、傷も、執着も、
 そして誤解も、沈黙も、
 それらをすべて携えたまま、
 もみじは空に身を委ねてゆくのです。
 私たちは、どうでしょうか。
 見せたいものだけを見せ、
 傷つきやすい部分を覆い隠しながら、
 人のまなざしの中で生きようとしてはいないでしょうか。
 けれども神は、
 そのすべてをご覧になっているのです。
 裏も、表も、
 まだ赤くなりきれない部分も、
 枯れて崩れそうなふちどりさえも。


良寛
宝暦8年(1758年)越後に生まれ、若くして出家。曹洞宗の僧として修行を積みつつ、寺に定住せず草庵に暮らし、書と和歌・俳句に心を寄せた。子どもたちと遊び、民の中に生き、清貧と無心の生活を貫いた。その詩歌は、やわらかな人間愛と透徹した無常観に彩られ、いまも多くの人の心を照らし続けている。

 

 
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 平和を求める祈        アッシジのフランシスコ

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに、愛を置かせてください。
争いのあるところに、ゆるしを。
分裂のあるところに、一致を。
疑いのあるところに、信仰を。
誤りのあるところに、真理を。
絶望のあるところに、希望を。
闇のあるところに、光を。
悲しみのあるところに、喜びをもたらす者としてください。
主よ、慰められることよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは、与えることによって受け、
ゆるすことによってゆるされ、
自分を捨てて死ぬことによって、永遠の命にあずかるのです。

アッシジのフランシスコ 
1181年頃、イタリア中部アッシジに生まれる。裕福な商家の子として育つが、若き日、戦いや病を経て回心し、すべてを捨てて貧しい人々と共に生きた。小鳥に語りかけ、太陽や大地を兄弟姉妹と呼んだ彼の生涯は、「清貧」と「平和」の道そのものであった。その姿は今も世界の人々を魅了し、祈りと愛の証しとして輝き続けている。



 

「聖フランシスコの祈り」として知られている、あの深く人の魂に染みわたる祈り――
実は、それはアッシジのフランシスコ自身の手によるものではありません。
その祈りのことばは、1912年、フランスの小さな雑誌『La Clochette(ラ・クロシェット=小さな鐘)』に、匿名のかたちで静かに掲載されました。
誰が書いたのか、いまもわかりません。けれど、その無名の祈りが、まるで遠い鐘の音のように、
時代をこえて人々の心の奥へと響きはじめたのです。

 
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太陽の賛歌

太陽の賛歌
いと高き、全能の善き神よ
賛美と栄光と誉れとすべての祝福は
   ただあなたのもの
それらはみな、あなたにこそふさわしく
人は誰もふさわしくあなたを語ることはできません

賛美されますように、私の主よ
   あなたがお造りになったあらゆるもの
とくに、貴き兄弟である太陽によって
この兄弟は真昼の光、この兄弟によって
   あなたはわたしたちどもを照らしてくださいます
この兄弟は美しく、大きな輝きをもって光り輝き
あなたのお姿を帯びています、いと高き方よ

賛美されますように、わたしの主よ
   姉妹である月と星とによって
あなたはそれらを清く貴く美しいものとして
   大空にお造りになりました

      「アシジの聖フランシスコ伝記資料集」より

 
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🌿風のように、祈りのように ――五十嵐両牧師をお迎えして―― ある朝、
ひとひらの風がそっと扉を開け、
静かな光を運んでくるように――
五十嵐高博牧師、五十嵐悦子牧師のおふたりが、
この教会に訪れてくださいました。
その佇まいにふれるとき、
ふと、遠い昔、アッシジの町に生きた
フランシスコとクララの姿が浮かびます。
権威や成功ではなく、
「貧しさ」という自由を選び、
誰よりも小さき者の傍に立ち続けたふたり。
その霊的な歩みが、
五十嵐両牧師のお姿とどこか重なって見えるのです。
急がず、押しつけず、
ただ耳を傾け、
ただともに祈り、
ただ静かに寄り添ってくださる――
そのような方々と、この町で出会えたことを、
私たちは深い感謝のうちに受けとめています。
教会は、石でできた建物ではありません。
祈る者と祈られる者が交わるところ、
まなざしの灯るところに、
教会の命は生きています。
どうかこれからの日々、
この地の空気を吸い、
この町の声に耳を澄ませ、
私たちの生活と祈りのなかに
おふたりの歩みを重ねてくださいますように。
おふたりを通して、
もう一度、キリストを生きるということを――
心静かに、私たちは学びなおしてゆきたいのです。
ようこそ、五十嵐高博牧師、五十嵐悦子牧師。
この小さな教会へ。
そして、祈りの営みのただなかへ。

キリストを生きる――恩を知らぬ者にも

もう五十年も前のことになります。
私がキリスト者になりたいと願ったのは……
もちろん「罪のゆるし」を求める想いが、
心の深みに静かに沈んでおりました。
けれど、それ以上に――
イエスのように、
何ものにも縛られず、
ただ風のように、自由に生きたいと、
切に願ったのです。
すべてを捨て、
すべてを委ね、
貧しき者とともに歩み、
敵にさえも、
見返りを求めず与え尽くす。
そのようなイエスの歩みに、
私は魂の奥底から惹かれていたのです。
あの頃――
『ブラザー・サン・シスター・ムーン』という一本の映画を観ました。
https://www.youtube.com/watch?v=wo2eBfXdkX0&ab_channel=YouTubeMovies 若き日の聖フランシス――
陽と風と花とともに生きた、あの清らかな青年。
何も持たぬことの、あの澄みきった自由。
何も守らぬことの、あの透きとおる愛。
彼が裸足で歩んだその道に、
私もまた続いていきたいと、
修道院に入ることすら真剣に思い描いたこともありました。
  今でも思い出す映画の主題歌

"Brother Sun and Sister Moon
I seldom see you, seldom hear you tune,
preoccupied with selfish misery

Brother Wind and Sister Air,
open my eyes to visions pure and fair,
that I may see the glory around me.

I am God's creature, of Him I am part.
I feel his love awakening my heart.

Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear you tune,
So much in love with all that I survey."
  けれども人生というものは、
静かに流れを変えてゆきます。
家族が与えられ、
守るべきものが少しずつ増え、
日々は落ち着き、
やがて私は「安定」という名の舟に、そっと身を預けるようになりました。
それはそれで、
深く感謝すべき恵みであることに、何の疑いもありません。
けれど……
いつしか私は、
「何も持たないことの自由」を失い、
「何も見返りを求めない愛」を
生きにくくなっている自分に、ふと気づくのです。
あの頃、イエスはこう語っておられました。
「あなたの上着を奪おうとする者には、下着も与えなさい。」(ルカ6:29)
「自分を愛する者を愛したからといって、何の報いがあるでしょうか。
…しかし、敵を愛しなさい。」(ルカ6:32–35)
この言葉を聞くとき、
胸の奥で、何かが小さく、しかし確かに鳴ります。
イエスは決して、
「信頼できる者にだけ親切にしなさい」とは語られなかった。
信頼の築けぬ相手にも、
恩を返さぬ者にも、
自分に冷たくする者にも――
それでも、先に、こちらから愛を差し出せと、
そう、静かに言われたのです。
なぜなら、
神ご自身が、まさにそのように在られるからです。
「神は、恩知らずな者や悪人にも情け深い。」(ルカ6:35)
神は、
人がふさわしいから愛するのではなく――
ただ、愛するがゆえに、
その雨を、正しい者にも、悪しき者にも、等しく降らせてくださるお方です。
私は――
あの聖フランシスが見上げていた空を、
もう一度、仰ぎ見たいと思うのです。
信頼がなくても、
誤解されても、
見返りがなくても、
それでも与え、赦し、寄り添い続けるという、
キリストのように生きる道を、
もういちど歩き出したい。
「キリスト教を生きる」のではなく、
「キリストを生きる」――
御国が近づいている今、
あの若き日の決意に、
静かに、深く、立ち返ろうとしています。

 
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ある技能実習生の静かな出会い 知らぬ間に、日本に来てから四年の月日が流れていました。私は、技能実習生として、ただ与えられた仕事に向き合いながら、この国の四季の中に、自分の影を重ねていました。

 
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 来日したばかりの頃の私は、右も左もわからない、若いひとりの労働者にすぎませんでした。高等学校を卒業して間もない私にとって、日本はあまりに遠く、そして静かな国でした。その静けさはときに優しく、けれどときに、心の奥を締めつけるような冷たさをもっていました。
 言葉が通じないことは、毎日のように壁となって私の前に立ちました。同僚とのあいさつすら、戸惑いと不安のなかで覚えていきました。  
 寮に帰れば、誰も話す相手のいない夜。ベトナムの家族に電話をかけたくても、時差と仕事の疲れで、やがて私は言葉ではなく、沈黙とともに過ごすことを覚えていきました。
 ある日、仕事のあとで、ふと近くの神社に足が向きました。信仰のためではありません。ただ、ほんの少しでも静かな空気に包まれたかったのです。
 夕暮れの境内に、ひとりの老人がベンチに座っておられました。その姿は、まるでこの土地の時間そのもののように穏やかで、やがて私に気づくと、風のようなまなざしをこちらに向けてくれました。
 私は、おずおずと近づき、つたない日本語で、少しずつ、自分のことを話しはじめました。
 老人は、私の拙い言葉にも惑うことなく、ただ静かにうなずきながら、耳を傾けてくださいました。まるで、「わかる」ということを超えて、「受けとめる」という深さで私に向き合ってくれていたのです。
 やがて、その方は語りはじめました。かつての日本のこと、時代の移ろい、人々の心の変化。それは、特定の
宗教の教えでもなく、説教でもない、ひとつの人間が、もうひとつの命に語りかけるような、やさしい時間でした。
 私もまた、自分のふるさとのこと、家族のこと、そして「この地で学び、何かを持ち帰りたい」という夢を話しました。
 言葉にならない想いも、沈黙の中で少しずつ溶けてゆき、言葉を超えたまなざしと、微笑と、ただそこにある時間のなかで、私たちは、確かにつながっていたのです。
 そこには、
宗教や国籍や世代のちがいを超えて、「ともにある」ということの橋が、たしかに架かっていました。  その方は、なにかを「教える」ことをしませんでした。ただ、そこにいて、静かに、ゆっくりと「生きる」ということを示してくれました。  別れ際、その方は私の手をそっと握り、「どこにいても、心のぬくもりだけは、忘れないでくださいね」と言いました。
 その言葉は、技能実習生としての日々の中で、いまも私の胸の深くに、小さな灯火のように灯り続けています。  あの出会いは、
神とも仏とも名づけえぬ「大いなるもの」が、異国の地でさまよう私に、そっと差し出してくれた贈り物でした。
 それ以来、私は週末ごとに神社に足を運ぶようになり、その方とともに、境内を掃き、手水舎を磨きました。ただ、それだけのことなのに、そこに
特定の信仰を超えた祈り
のような清らかさが宿っていました。
 私は、身体でゆっくりと学びました。「清める」とは、誰かを裁くことではなく、自分自身の心を澄ませるということなのだ、と。
言葉ではなく、仕草ひとつで伝わるぬくもりが、そこにはたしかにありました。 あの出会いは、私だけの物語ではなく、人と人とがつながる、ひとつのしるしだったのです。  けれど、最近は、その方の姿を見かけなくなりました。神社を訪れるたびに、私はあの木のベンチを探してしまいます。ベンチはそこにありますが、あの方の姿だけが、もう見えません。そしてある日、「あの方は、もう帰らぬ人となった」と、静かに知らされました。
  言葉にされぬ悲しみが、深い森のように胸の中を満たしていきました。私の心には、そっと祈るような気持ちが湧いてきます。どうか今も、どこかで、風となってこの神社を見守っておられますように――。
 気づけば、その方は私にとって、「日本のおじいさん」になっていました。血のつながりではないけれど、魂のどこかで結ばれた、たったひとりの大切な人でした。

思いがけない光の交差点

――歎異抄とパウロ、信仰のひびきあい

このページをひらいてくださった方へ。 ここで、ひとつの思いを分かち合えたらと思います。
異なる光が交わる場所で、私たち自身の足元を見つめなおす。
そんなひとときを、ともに過ごしてみませんか。
キリスト教の歩みが西洋から伝えられる中で、日本の精神的な風土とどこか噛み合わないまま、誤解やすれ違いが生じてきた歴史があるように思います。
でも、本当に福音の光を受けとめるためには、自分の心の井戸の深さを見つめることから始まるのかもしれません。
「わたしたちは、見ることによってではなく、信仰によって歩んでいるのです。」(二コリント5:7)

 
 

日本のキリスト者、内村鑑三や遠藤周作は、『歎異抄』という一冊の中に、福音と響きあう光を見出しました。
それは、私たちの言葉で語られているからこそ、魂の奥深くまで届いたのかもしれません。
 『歎異抄』は仏教の書物ですが、その問いかけ――「なぜ私たちは苦しいのか」「ほんとうに安心できる場所はあるのか」――には、キリスト教が語る福音の核心とも通じる響きがあります。 「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」   この言葉は、人間の限りない弱さと向き合う視点です。
それは、パウロが語る「すべての人は罪を犯した」(ローマ3章)という言葉と、どこか深く重なっているように思えます。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人の中で最たる者です。」(一テモテ1:15)  ある晩、教会の静けさの中で、一人の青年がぽつりと漏らしました。 「ぼくには立派なことは何一つできません。聖書も読みきれず、祈ってもすぐに心が離れていってしまうんです。そんなぼくが、本当に神さまに受け入れられているなんて、信じられません。」 その言葉には、どこか『歎異抄』第九条に記された問い――「念仏を称えていても、踊り上がるような歓びの心が湧いてこない」と悩んだ唯円の声と同じ、揺らぎがにじんでいました。 信じようとしているのに、喜びが実感として伴わない――その違和感と孤独。
けれども、だからこそ見えてくる光もあるように思います。
私は、聖書を静かに開き、心の中でひとつの言葉を思い浮かべました。 「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのです。」(ローマ3:28) 誰かに教える資格があるわけではありません。
ただ、同じように揺れながら歩んでいる者として、こう思うのです。
 

『見えなくとも、照らされている』
                                                       正信偈一節に寄せて

「極重悪人唯称仏」 どれほど深く罪を負った者にも、
ただ南無阿弥陀仏と称える声ひとつに、
仏はそのすべてを受け入れてくださる。
「我亦在彼摂取中」
私もまた、その見捨てられることのない
ひかりの中に、いま、ある。
「煩悩障眼雖不見」
煩悩が眼をさえぎり、
その光を見失うことがあっても――
「大悲無倦常照我」
仏の大いなる慈しみは、倦むことなく、
いまも、変わらず、私を照らしてくださっている。

 
 



  これまで、幾度となく読み返してきた晴佐久昌英神父の『病気になったら』。けれど、今回の入院で、私は初めて、その言葉を「自分のこと」として受け取ることになりました。ベッドに横たわりながら、静かにページをめくる。そこに綴られたひとつひとつの言葉が、まるで私に向かって語りかけてくるようでした。

「恵のとき―病気になったら」 晴佐久昌英  

『病気になったら』  
病気になったら、どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術が怖いといって涙ぐみ
死にたくないよといって、めそめそしよう
 
恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
 
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを
 
病気になったら、おもいきり甘えよう
あれが食べたいといい
こうしてほしいと頼み
もうすこしそばにいてとお願いしよう
 
遠慮も気づかいもいらない
正直に、わがままに自分をさらけだし
赤ん坊のようにみんなに甘えよう
 
またとないチャンスをもらったのだ
思いやりと まごころに触れるチャンスを
 
病気になったら、心ゆくまで感動しよう
食べられることがどれほどありがたいことか
歩けることがどんなにすばらしいことか
新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか
 
忘れていた感謝の心を取りもどし
この瞬間に自分が存在しているという神秘、
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう
 
またとないチャンスをもらったのだ
いのちの不思議に、感動するチャンスを
 
病気になったら、すてきな友達をつくろう
同じ病を背負った仲間、
日夜看病してくれる人、
すぐに駆けつけてくれる友人たち
 
義理のことばも、儀礼の品もいらない
黙って手を握るだけですべてを分かち合える
あたたかい友達をつくろう
 
またとないチャンスをもらったのだ
神様がみんなを結んでくれるチャンスを
 
病気になったら、必ず治ると信じよう
原因がわからず長引いたとしても
治療法がなく悪化したとしても
現代医学では治らないといわれたとしても
 
あきらめずに道をさがし続けよう
奇跡的に回復した人はいくらでもいる
できるかぎりのことをして、信じて待とう
 
またとないチャンスをもらったのだ
信じて待つよろこびを生きるチャンスを
 
病気になったら、安心して祈ろう
天にむかって思いのすべてをぶちまけ
どうか助けてくださいと必死にすがり
深夜、ことばを失ってひざまづこう
 
この私を愛して生み、慈しんで育て
わが子として抱き上げるほほえみに
すべてをゆだねて手を合わせよう
 
またとないチャンスをもらったのだ
まことの親である神に出会えるチャンスを
 
そしていつか、病気が治っても治らなくても
みんなみんな、流した涙の分だけ優しくなり
甘えとわがままをこえて自由になり
感動と感謝によって大きくなり
友達に囲まれて豊かになり
天の親に抱きしめられて
自分は神の子だと知るだろう
 
病気になったら、またとないチャンス到来
病のときは恵みのとき

 
 



  これまで、幾度となく読み返してきた晴佐久昌英神父の『病気になったら』。けれど、今回の入院で、私は初めて、その言葉を「自分のこと」として受け取ることになりました。ベッドに横たわりながら、静かにページをめくる。そこに綴られたひとつひとつの言葉が、まるで私に向かって語りかけてくるようでした。

最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを
少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友、われなんじを見捨てじ」と。

人生の終わりに近づくその年齢においてさえ、
彼は、彼女は「待つ」ということをやめませんでした。
目に見えぬ神の来臨を、
魂の深い静けさのうちに、見つめていたのでしょう。
わたしたちの時代にも、
そういう「祈りの人」が、
ひそやかに、しかし確かに、
この世を支える見えない柱となっている気がいたします。
思い出すのは、
かつて上智大学の学長でもあった
ヘルマン・ホイヴェルス神父の残した小さな詩――
「最上のわざ」と題された、その静かな一篇です。

 



  これまで、幾度となく読み返してきた晴佐久昌英神父の『病気になったら』。けれど、今回の入院で、私は初めて、その言葉を「自分のこと」として受け取ることになりました。ベッドに横たわりながら、静かにページをめくる。そこに綴られたひとつひとつの言葉が、まるで私に向かって語りかけてくるようでした。

病者の祈り   大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
  慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
  より偉大なことができるように健康を求めたのに、
  より良きことができるようにと病弱を与えられた
  幸せになろうとして富を求めたのに、
  神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
  人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
  あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
  求めたものは一つとして与えられなかったが、
  願いはすべて聞きとどけられた
  神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
  心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
  私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ
     

以上の詩は、ニューヨークリハビリテーション研究所の壁に掲げられているものです。もともとは病室の壁に記されていたものが、後に受付の壁に移されたと伝えられています。作者については不詳とされることが多いのですが、渡辺和子さんは著書『幸せのありか』(PHP文庫)の中で、南北戦争(1860〜1865)で負傷し入院していたロイ・カンパネラという人物の作と紹介しています。ただ、その出典の詳細については明らかではありません。

    私たちの祈りは、ときに沈黙の中に吸い込まれてゆきます。
けれどその沈黙の向こうで、神はすでに、
私たちの願いを、もっと深く、もっと真実に聞いておられたのです。
人は、願いがそのまま叶うときよりも、
それを超えた“見えない贈り物”に出会ったとき、
ほんとうに生かされていることに気づきます。
この詩は、傷ついた者のつぶやきでありながら、
どこか、イエスがゲツセマネで祈った言葉と重なります。

「わたしの願いではなく、あなたの御心がなりますように」
――それは、敗北ではなく、信頼への跳躍なのです。
 
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