聖書の言葉

「ありがとう」に生きる

「ありがとう」に生きる

ルカによる福音書6章5節

 日曜日に教会にいくことで、何か生活が変わりますかとたずねられることがあります。教会に行けば幸せになれるのだろうかとか、健康に恵まれるのだろうかとか、仕事がうまくいくのだろうかと期待があるのかもしれません。悩み多い日々にあって、自分はしっかりと生きていけることを願ったり、立派な人になりたいというあこがれもあるかもしれません。そんな問いかけをする方に、こうお答えしたいと思います。教会に来ると、神さまに「ありがとう」と口にできる生活になります。感謝の生活になります。わたしたちの生活には感謝がある。ありがとうがある。そういえるのは素敵なことではありませんか。
 「ありがとう」と口にする生活は、悩みが解決したとか、病気が治ったとかいうことだけではありません。もっと素朴にわたしたちの毎日の暮らしが神さまに守られていること。食べるものも着るものも、住むところも、仕事も、家族も、全部神さまが与えてくださったことを知る「ありがとう」です。そんな感謝ばかりではない、とこぼしたいあなたのことも神さまが知ってくださっている「ありがとう」もあります。
 そもそも「ありがとう」というのは、わたしにはもったいないなぁという思いです。身に余るものなのに受け取らせていただいた喜び。「ありがとう」といえる時、人は自分が大事にされていることがわかります。わたしを大切に扱われていることを受け止めています。わたしたち自身の大切さも知らされる思いがするのです。だから「ありがとう」というのは、口先だけの喜びだけではありません。体全身が、魂が喜んでいるのがわかります。この喜びのために、神さまはイエス様を与えてくださいました。この喜びに招かれる。それが日曜日、教会に集うことです。
 教会にきて、神さまに「ありがとう」といえるこの生活を大切にしたいのです。神さまを大事にしたいと思います。「ありがとう」というのにふさわしく、生きていきましょう。誠実に、真面目に、聖書の教えの通りに生きていていきましょう。「ありがとう」といえることを喜んでまいりましょう。ただし、わたしがこんなに「ありがとう」に生きているのに、この人はいい加減だとか、感謝がわかっていないと周りの人に腹を立てたり、非難したりすることはやめましょう。そうやって周りを見たからといって、あなたの「ありがとう」が深まるわけではありません。また「ありがとう」の生活にふさわしくなるわけでもありません。それどころか「ありがとう」と神さまに感謝するよりも、自分がどれだけ立派なものなのか誇ろうとする。神さまへの「ありがとう」が二の次になることになりかねません。
 神さまがわたしたちを知っていてくださる「ありがとう」。これはイエス様が命をかけて神さまを知らせてくださったことです。神さまへの「ありがとう」に、日曜日、主の日には生きてほしいとわたしたちに願ってくださったイエス様です。わたしが良い人になって、頑張って、努力して「ありがとう」と言える人になれというのではありません。まわりの人と比べてでもありません。本当は、わたしたちがどれだけ真面目に、立派に、誠実に生活したからといって、イエス様の命に見合うものではないのです。ふさわしくなることだってできません。にもかかわらずイエス様はご自分の命をもって、神さまへの「ありがとう」のもとにわたしたちを取り戻してくださいました。そうであるなら、わたしたちの「ありがとう」は、ただただ神さまの恵み。神さまの憐れみであるのです。

何も失っていない

何も失っていない

ルカによる福音書4章43節

 神の国の福音。イエス様がおっしゃった言葉です。サッカーのワールドカップが開かれようとしているとき、開催国のブラジルはじめ、いろいろな国の名前を聞きます。神の国はそうした国々の一つではありません。神さまが王としてわたしたちのために思いも働きも尽くしてくださっているということ。わたしたちが神さまなどないかのように自分の人生に追われているときにも、神さまはわたしたちを忘れない。相変わらずの神さまでいてくださる。それが神の国。ここに安心感があります。わたしたちの神であり続けてくださる方を知る、満たされた思いがあります。
 わたしたちは、自分の生活から神さまを見ようとします。それは大切なことですけれども、時々神さまを信じていてもわからなくなります。悩みに沈んでしまうと、神さまはわたしを忘れたのではないかって思ったり。愛する人を亡くして、神さまはひどいって訴えたり。そんな風に思ってしまうわたしのことを、神さまの心は離れてしまうのではと、失われた心地するのです。
 でも神の国の福音という言葉にイエス様が込めたのは何か。それは、あなたは神さまに愛される神の子として何も失っていないことです。神さまの思いのなかにあって、少しも欠けはないし、損なわれていません。神さまがあなたを信頼するところに、何も足りないことなどありません。
 わたしたちは不足を数えるのが得意です。病気になれば、健康が損なわれたといいます。自分の思い描いていた人生の喜びを失ってしまったといいます。負っている重荷のせいで、他の人のような幸せは自分にはないと嘆きます。年老いていくことは、今日も一つ、また今日も一つと失っていくことを実感する日々かもしれません。イエス様はそういうわたしたちのなかで伝えてくださるのです。神さまに愛されるところで、あなたが失ったものを数えることは意味がない。あなたを支えてきたものを、失った寂しさにあるときにも、その惨めさを過ごすからこそ、神の国の福音!神さまはあなたの神であり続けてくださいます。
 神の国の福音、それはイエス様そのものです。神さまはわたしたちを愛してやまないことをこれ以上現しようがない、ぜひにも伝えたいとイエス様を与えてくださいました。しかしこの世は、イエス様を十字架につけてしまいました。神の愛を退けました。この世は救い主を失ってしまいました。でも神さまは、人が神のみ心を無にして、自ら神さまの思いを捨て去った十字架を、愛のしるしとしてくださいました。十字架にあってあなたは神の子だって教えて下さいました。神の子を殺してしまった罪でさえ、神さまの愛を失わせる力にはならないのです。それが神の国の福音です。それならば、何が神さまの愛から、あなたを失わせることができるでしょうか。
 イエス様が出て行くところは、神の国の福音を待っているところでした。神さまの憐れみのなかにある人たちのところへ出て行かれます。それは他の誰かではない。あなたのところです。あなたは神の子として、何ら失われていないことを信じることができるように、イエス様が信じて、わたしたちのところにまで来てくださいました。
 「わたしは神の福音を告げ知らせなければならない。そのために遣わされたのだ。」

こころを込めて

こころを込めて

 最近、誰かから手紙をもらったことはありますか。郵便受けに届くのはダイレクトメールばかり。用事を伝えるのなら今どきメールで済んでしまいますから、手紙をもらうことも書くことも少なくなってきたことにふと気がつきます。
 そんなにたくさんあるわけではないけれど、捨てられない手紙が引き出しの奥にしまってあります。その人の思いが伝わってきた手紙。その人の言葉が聞こえてくるような手紙。その人の心のこもった手紙。わたしのために一文字一文字連ねてくれたことが嬉しくて、励まされて、自分のことも大事にしたいと思えた手紙。
 教会で開いている「聖書」。これは神さまからの手紙です。あなたはまだ開いたことがなかったかもしれないけれど、そこにはあなたのことが書いてあります。あなたへの思いが書かれています。あなたのことをいつも大切に思っている。あなたの喜びの日々を共に喜びたい。悲しみの日々を共に涙したい。あなたがどんな日々をすごしているときにも、神さまの祝福は失われていない。そんな神さまの思いがしたためられたのが「聖書」。心を込めて神さまが記したあなた宛の手紙です。

教会には幸せがあります

教会には幸せがあります 

申命記10章12-13節

 教会には幸せがあります。神さまはわたしたちに幸いを願っています。わたしたちが幸せになりたいというのではなく、神さまが幸せであってほしいと願っています。あなたは幸いに生きる人だと、神さまが語っています。
 幸せという言葉は、もともと「仕合わせ」と書きました。その意味するところは「出会い」それから「巡り合わせ」。今この人と、この人たちと共にある尊さを喜んだのが幸せでした。あなたは幸いに生きる人と語られる神さまの幸せとは、神さまと一緒にあることです。わたしたちの人生がいつも神さまとつながっている。神さまと一緒にある幸せは取り上げられることはありません。
 イエス様が弟子たちに最初に教えたのも「幸せ」でした。心の貧しい人は幸いである。悲しんでる人は幸いである。ぺちゃんこに押しつぶされ層になっている人は幸いである...。世の中ではこういうのを「不幸」と言うのではなかったでしょうか。そうです。世の中では、不幸として数えられるものです。でもイエス様はそこに幸いを語る。イエス様が見ていたのは神さまの幸い。人が自分を不幸で、辛酸をなめるような思いを続けているのだというときにも、しかし神さまの憐れみはあなたにたっぷり注がれている。涙過ごす日々にも、孤独のうちにのたうち回るときにも、神さまが共にいてくださる幸いにイエス様も目を向けられました。あなたは不幸に囚われるのではなくて、幸せに生きる人なんだって伝えてくださる神さまがある。そういう神さまとの出会いを、幸い、そして救いというのです。
 だからそういう神さまの言葉を聞くことのできる教会は幸いです。教会は幸いなところです。教会はあなたを幸せにします。皆さんに幸せでいてほしいって、本当に願ってくださる神さまの言葉を聞くからです。
 一応、誤解のないように。教会はあなたが今抱えている憂いや悩みがすぐさま晴れる、思い通りの人生になるというようなことを売りにしているわけではありません。実際、教会に足を運ぶ人の中には解決ならない問題を抱えている人が少なくありません。どうしてわたしが、またわたしの家族が苦しまなければならないのかって心地してる人だってあります。自分が幸せになりたいんだってことさえ忘れてることだってあるでしょう。
わたしたちの事情はいろいろです。
 でも神さまが、あなたは幸せに生きる一人であると、覚えていてくださいます。そして、あなたがあることを、ご自分の幸いとして神さまは覚えてくださいます。わたしたちは誰かに自分を喜んでもらえるのは嬉しいものです。誰かに喜ばれていることに、自分の尊さを知ります。どんな日々をすごしていても、わたしの人生に意味があることを知ります。あなたが幸いに生きるために、あらゆる手立てを尽くしてくださった神さまです。独り子イエス様を与えてくださるほどに、あなたは幸いに過ごしてほしい、あなたは幸いなんだって伝えてくださる。教会には幸せがあります。

生身の人

生身の人

ルカによる福音書3章23節

 わたしたちが人を愛するのは、相手が生身の人であることを知っているからです。赤ちゃんのほっぺに触れるように、柔らかくて、すべすべしてて、温もりあるもの。でも、ちょっとしたことで傷ついてしまいそうで、だから恐る恐る手を伸ばさずにいられない。そっと手のひらで包み込むように大切にしたいと思いたくなるようなもの。それが生身の人。あなたの家族も、友人も、通りですれ違う人にも、同じ生身の人生があります。それなのに社会では、ついお互いを肩書で見てしまいがち。大人同士だけではありません。家庭のなかでもそうですね。わたしも自分の子どもに対して「もう小学生なんだから」と叱りすぎることがあります。子どもも生身の一人であることを忘れてたと、後で反省ひとしきりです。
 人に尖った言葉を投げつけたり、不満をぶつけたり、ぞんざいな接し方をしてしまったりするのは相手が生身の人であることを忘れているだけではありません。それは悲しいかな自分のことも生身の人間であることを忘れてしまっています。人が生身の人間であることを忘れているとするのなら、それはもはや人ではありません。人が人でないとすると、神になることになります。けれども神さまはお一人以外にないのですから、聖書ではそれを「偶像」といいます。神さまは「いかなる像もつくってはならない」とおっしゃいました。これは、自分のことを生身の人間であることを忘れた偶像神にしてはいけないということです。 
 イエス様を十字架にかけたのは、この偶像の心でした。イエス様を生身の人間として見ることのできなかった人たち。自分たちに都合の悪い者、として十字架につけろと叫んだ人たち。また自分たちの思いどおりの王さまになってくださらなかったとがっかりして立ち去った弟子たちも同じ。自分を守ろうとして偶像の心を振りかざしたり、反対に偶像の心に閉じこもってしまいました。
 神さまはわたしたちをご覧になって、あなたは偶像のようだ、というのではありません。あなたがその暮らしの中で傷ついている生身の人、家族のために悲しんで悩んでいる、あなたの生身の人生ご存知です。自分にがっかりしていたり、こらえきれない重荷を負ってぺちゃんこになりそうなのを知っておられます。神さまはそんなあなたに触れたい、と願っています。
 相手が生身の人間だと知ると、人は相手にどこまでも優しくなれます。わたしたちを生身の人間だと知る神さまも、いえ神さまこそそうでした。どこまでも愛してくださる神さまの生身の思いがあります。この神さまの生身の思い、それがイエス様です。わたしたちを生身の人として愛するために、イエス様が生身の人として十字架に血潮を流され、死の孤独・絶望までをも受け入れてくださいました。そこまでして、わたしたちを生身の人として愛してくださる。この生身の神さまの愛のぬくもりに生きてください。


アンナ84歳

アンナ84歳

ルカによる福音書2章36-38節

 「アンチエイジング」とか「エヴァーグリーン」とかいう言葉が巷に溢れてきたのはいつ頃からでしょう。いつまでも若々しく過ごしたいというのは分からないではありません。けれども、歳取ることが悪いことみたいに言われているようで、あまりいい心地しないのはわたしだけでしょうか。今のあなたもカワイイって言ってくださる神さまに背を向ける罪のにおいを感じます。あなたがどんな年齢の時も、シワが増えたり、足腰弱ったりしてきても、神さまはあなたを愛してくださっているのを知ることのほうが嬉しいではありませんか。わたしたちは衰え古びていく者ですが、変わらずわたしたちを愛し続けてくださいます。あなたのその時その時、あなたの人生の全てを祝福したいと願っている方。それが神さまです。
 アンナという人がありました。彼女は84歳。聖書でも長寿は、神さまの祝福のしるしの一つ。ところがアンナは幸いな人生を過ごしてきたかというとそうではありませんでした。若い時に嫁いでから、夫と暮らしたのは7年間。その夫と死に別れて後の人生、60年以上もずっと寡婦住まい。愛する者を失って一人。神殿でひたすらに祈り続けて来ました。そのひたすらさに、返って夫と死に別れた悲しみをずっと抱えてきた孤独を思います。夫の死を思い続ける。神殿で祈り続けるも、神さまがアンナを覚えていてくださるということには、なかなか心向けることができなかったのでしょう。なかなかどころではありません。60年以上神殿に仕え続けてもなお、神さまの憐れみの中に自分を見ることができませんでした。
 でも84歳のその日、アンナは救い主イエス様をみました。神が与えてくださったイエス様を見ることが出来ました。神さまはイエス様と出会わせてくださいました。夫の死を悲しむ孤独の生涯ではなく、あなたの救われた人生があると教えて下さいました。神さまの限りない恵みに触れたその日でした。
 アンナが一所懸命祈り続けてきた熱心な歳月が、神さまの心を動かし、神さまはアンナに慰めを与えてくださったように思います。彼女のこれまでの人生が報われたと、人は言うでしょう。けれども、熱心だったのは神さまです。神さまは彼女が自分の悲しみの祈りで重ねてきた日々を、一時だって忘れませんでした。彼女が「この目で救いを見た」といえるように、慰めに生きることができるように、神さまは彼女のことを思い続けてくださいました。それがアンナ84歳。アンナが労苦してきたのも、辛い人生だったことも本当です。そういう彼女に何とか、神さまの愛を、恵みを、喜びを届けたいと求め願ったのは神さまです。そしてついに、神さまの愛そのもの、イエス様をその日年老いたアンナの目に見させてくださいました。アンナの年月は慰めに満たされました。愛する者を亡くした悲しみの日々を過ごすアンナをも神さまの目には愛おしい。そういう神さまの思いがわかりました。それがイエス様と出会うこと。ここにアンナの人生は救われました。
 救いとは自分の苦しみ、悩みが終わること、心配がなくなることだけを言うのではありません。聖書に「贖い」という言葉があります。それは神さまに買い戻してもらうこと、神さまのものとされることを言います。神さまがこんなにもわたしのことを思っていてくれる。神さまに愛されていることがわかることです。84歳にしてアンナはしみじみわかりました。それまでの全てが、神さまに愛されていることがわかりました。
 アンナだけではありません。皆さんの人生も、神さまの眼差しの中にあります。神さまは今日もあなたを思い続けておられます。

つまらない言葉

つまらない言葉

マタイによる福音書12章7節

「もし、『わたしがもとめるのはあわれみであって、いけにえではない』という言葉を知っていれば...」

 祈るときに大切なこと。
 それは「つまらない言葉」で祈らないことです。つまらない言葉とは、口にしてもしなくても自分にとって意味のないこと、そして神さまにも意味のないことです。そんな言葉を並べないこと。これが祈るときには大切です。
 ところが人前で祈るとき、つまらない言葉を並べてしまうことがあります。それっぽい言葉を並べると、祈りっぽくなるからです。確かに、信仰の深みを現すのに適切な祈りの言葉があります。人前ではそういう言葉を並べた方が、重々しく立派な信仰者に見える。かっこいい祈りの言葉を並べたら自分は祈っていますよ、ちゃんと神さまを見あげていますよという風にみてもらえるでしょう。そういう言葉を体得している人を、信仰者として立派だと思ったりしていませんか。またそうやって祈りの言葉を並べられることを一人前の信仰者だと錯覚していることがありませんか。意外にも長年信仰生活を続けて来ている人にこそ「つまらない言葉」の落とし穴があるし、そこにはまっていることに気がつかないものです。
 つまらない言葉とは、つまっていないということです。神がおられない。自分がない。祈っていると言いながら、神を求める自分がいない。それなのにつまらない言葉を並べてしまうのは、つまらない言葉であっても賢そうに見えるからです。傍目には立派に見えるからです。日頃熱心に祈っているように思えるからです。自分自身確かな信仰を持って語っているように錯覚できるからです。
 つまらない言葉で祈りることは、それは祈っても祈らなくても同じでした。つまっていないんですから、そんな祈りをしようとしまいと毎日の生活はできてしまいます。祈りが聞かれるか聞かれないかだってどうでもいい。だってつまらないのですから。そうなると、祈りの力を信じると言うこともなくなります。「神さま」と呼びかることもむなしくなります。祈っても、祈らなくてもかわらないと言う風にしか思えない。そうして祈りへの信頼を失っていくのです。神への信頼を失っていくのです。祈りの時間を大切にしたいなどとは、思えなくなるあってもなくてもどうでもいい祈りの時間など必要なくなるのです。
 そういうわたしたちをイエス様は「あなた」と呼び求めました。あなたは「つまらない言葉」に生きなくても良いと教えてくださいます。イエス様は、あなたが「神さま」と心から呼び求めるのを神が待っていることを教えてくださいます。
 大仰な祈りの言葉を並べることではありません。「神さま」という小さな一言です。あなたが神を呼び求める小さな一言のために、イエス様は十字架につけられました。あなたが「神さま」と仰ぐことができるように、あなたの心も身体も生活も神を仰ぐことができるように、その小さな一つのために、しかし、かけがえのないこととしてイエス様はすべてをかけてくださいました。神への信頼を、神さまと呼び求めて生きる確かさと平安を、イエス様は十字架のうちにお与えくださいました。「神さま」という小さな一言であってもつまらないものではありません。神を神と呼ぶことができる。そのことを何よりも神は喜んでくださる、わたしたちの言葉を持って神の栄光が現されることをイエス様はご存じであったのです。
 あなたの祈りはもはやあなた一人のものではありません。イエス様の祈りとされています。イエス様が十字架によって取り戻してくださった神への信頼だからです。だからもうつまらない言葉を連ねるのはやめましょう。「神さま」とイエス様が呼ばせてくださるのですから。

あなたでなければダメなんです

あなたでなければダメなんです

マタイによる福音書11章3節

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」

 「あなたでいいんでしょうか。」
 イエス様にはいつもそんな声が向けられます。わたしの救い主は、あなたでいいんでしょうか。あなたは本当にわたしの救い主となってくれるのでしょうか。わたしの生活を、わたしの人生を、わたしの命をあなたにかけて、本当にいいのでしょうか。
 イエス様に向けられる声は、イエス様に救われる用意がない人からも向けられます。周りの人たちに良く思われていることや、お金や、健康が第一。それと引き替えにイエス様に自分の人生を委ねることなどできないと言う人たちです。それは仕方がないことです。それまでこの世で大事にされているもの以外に頼ったことがないのですから。
 それなら、イエス様がわたしの救い主と信じている人はどうなのでしょう。その人は揺らぐことなく、イエス様こそ救い主と信じ続けているのでしょうか。残念ながら、イエス様を信じていた人からも「あなたでいいんでしょうか」という声がぽろっ、ぽろっとこぼれてきます。イエス様がわたしの救い主、と信じているはずの生活なのに、相変わらずわたしたちの日々には不安があるからですます。不満があります。悲しみや、傷つくことがあります。それはただわたしの個人的なことだから仕方ないと言い切れません。だって、このわたしの生活はイエス様が来てくれたはずなのですから。神がわたしの日々に御手を差し伸べて支えてくださっていると信じていたはずなのですから。
 イエス様の弟子たちもそうでした。イエス様が十字架につけられる前の晩、ゲッセマネの園で祈られました。イエス様が血がしたたり落ちるような汗を流しながら悶え苦しんで祈っているのを弟子たちは目の当たりにしました。その弱り果てるお姿に、あなたでしょうか、あなたでいいのでしょうかという思いが弟子たちのなかにわき起こらないわけがありませんでした。イエス様が十字架につけられたとき、あなたでしょうかという声はいよいよはっきりしました。またイエス様が一人、ただ一人十字架につけられて、弟子たちはみんな逃げてしまうのを見たとき、まわりの人々からは、あなたでいいのでしょうかという声はもはやあがりません。あなたじゃなかった、あなたでは駄目だったという声こそがはっきりと聞こえてきます。
 震災の最中にあって、国が傷ついているこの世にあって、わたしたちの思い通りにならないあなた、わたしたちが信じてきたことが無力であるかのように思わされるあなた。そんなわたしたちの心地と重なってきます。あなたでいいのかと確かめたい心細さに人の罪ははっきりとあらわれてきます。
 でも聖書は語ります。あなたでしょうかとこぼしてしまう、人間の弱さ、罪深さにあってキリストのなさったことが聞かれると。イエス様は救い主であるのです。あなたでいいのか?どうか?ではないのです。わたしのために命をささげてくださった、あなたでなければだめなんです。
 信仰とは「あなたでよいのでしょうか」と確かめる道ではありません。そう問わざるを得ないわたしたちを、救われる「あなた」としてイエス様が求めてくださることを信じる道です。イエス様は「あなたは救われるのにふさわしいでしょうか」とわたしたちにたずねたりはなさいません。「あなたはわたしの救い主」とはっきりと述べることのできない者であっても、わたしはあなたを救いたいと、ご自分のすべてをかけてくださったのです。それ故に、イエス様こそ我が救いと信じるあなたとされるのです。

望 み

望 み

 マタイによる福音書4章4節

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。

 「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある」とイエス様はおっしゃいました。旧約聖書の申命記に書いてあるでしょと教えて下さいます。
 この言葉はイスラエルの民が奴隷として過ごしてきたエジプトから導き出された旅路のなかで聞いた言葉でした。それも旅の終わり、神が約束して下さった乳と蜜の流れる土地、約束の地を目の前にして、そこに新しい生活が始まろうとするときです。それまでのイスラエルの民は不平不満の多い不従順な者であったけれども、神がこれを愛し40年に渡る旅路を神は養い守られてきたことを思い起こしつつ、この言葉が語られました。
 神はここでみ言葉も大事と言うのではありません。パンがあって、生活が満たされて、その上で神の言葉や信仰も大事ですと言うのではありません。人は神の口から出るすべての言葉によって生きるからです。神のすべてです。神のすべてを与えられて生きるのがわたしたち人なのです。神のみ言葉に養われて、自分に与えられた道を歩む者となる。そこではパンも与えられて行くでしょう。生活も整えられていくでしょう。しかし、何より人の生活は神の言葉の中にある。あなたの日々は神の御心の中にあるのです。
 神の口から出る一つ一つの言葉。それは神の民としてどのように生活するか、一つ一つ教えられた神との約束の言葉でした。今日を神のお命じになる言葉に生きることです。でも、もう一つ神の言葉は語っています。それは神の望みです。人はパンだけで生きるのではないと言うことと併せてこう語られます。
 「あなたの神、主はあなたをよい土地に導き入れようとしておられる」「あなたは食べて満足し、よい土地を与えて下さったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」
 約束の地でどんな生活が始まるか経験していないイスラエルの民に、あなたたちはそこで満たされた生活を送るであろう、神の恵みにあずかることを喜ぶであろう、そのことを思って今神を讃えなさいと語られました。
 神の言葉によって生きるというのは、今日の食べ物だけの話ではありません。目の前の困難に対してどうかということではありません。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるというのは、神への信頼によって生きることです。神への期待に生きることです。いえ神の望みに生きることです。
 神の言葉を聞くことは、望みを聞くことです。そして与えられる望みに感謝しつつ生きることができる。み言葉とは望みであります。神の子として生きることは、自分の今の満足を求めて歩むことではありません。神のもとにこそ、望みがあります。
 今は欠けが多いかも知れません。癒しがたい病に苦しんでいるかも知れません。日々の辛さや、不安を数えています。悩みや、憂いが取り除かれなけれることを願って祈ってきました。あるいはその祈りも聞かれないと思ってしまって心折れるようなときを過ごしてきたかも知れません。
 しかしそのようなわたしたちに望みの言葉が与えられています。神のこれからに期待する望みと慰めが与えられています。目の前の石をパンにかえることはなくても、神の望みに生きる命が与えられています。自分の願うとおりの生活からはかけ離れている、堪えて過ごしているときにも、神が満たして下さるであろうことに望みを持ち、感謝しつつ歩んでいく歩みが与えられています。それが終わりへの望みを与えられつつ今日を過ごす、健やかな信仰生活です。

あやかりたい

あやかりたい

ローマの信徒への手紙6章5節

もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 世の中でときどき耳にすることですが「人は死んだらこの世の重荷からも苦しみからもなくなる」といいます。それは死への望みとして説得力があります。パウロも同じように「死んだ者は罪から解放されています」といいました。けれどもそれは、人が死んだ後の話をしたわけではありませんでした。イエス様の十字架の死を信じる恵みを語ったのです。
「解放されている」という言葉遣いは、もともと死んだら借金の取り立て屋はもう来ないよ、ということでした。いつも罪の借金苦に首が回らなかった人間でしょうか。罪の借金取りは、すべての者のところにきました。罪を犯さないようにしようとしているところでも、罪の取り立て屋を恐れている人間でした。罪という明確なかたちでなくても、人は過去の失敗を、過ちを責め立てられているような心地することがあります。そこでわたしが否定されているように思う。受け入れられていないように思う。自分はゆるされていないように思う。いえ何よりも自分で自分をゆるせない時をすごします。罪の取り立て屋は、そうやってあの手この手を尽くしてわたしたちを罪のもとに置きます。わたしたちの平穏な日々の扉を、ドンドン!と大きな音をたてて叩いてくる。あんたはそれでいいと思っているか、自分が正しいと言えるのかと突きつけてくる。神の恵みのもとにあることを失わせるのが罪の取り立て屋の常套手段です。
 そんな罪の取り立て屋に苛まれる人間にとって「死んだ者は罪から解放されています」という教えは慰めとなるかもしれません。罪のきつい取り立てから逃れることができると。でもわたしたちが聞くのは、やがて迎えるいつか、死の時ではありません。今日この日のことです。今日、イエス様の救いの御業を聞くのです。それはイエス様の十字架の死と復活によってあなたは救われていると語られるのです。このイエス様に罪から解放されているという福音を聞いているのです。
人が死んで初めて罪から解放される、自由になるというのではありません。なぜならわたしたちはイエス様の死にあやかるからです。イエス様はわたしたちに代わって罪から解放してくださる死を死んでくださいました。人が死ななければ罪から自由になることができなかった罪をイエス様の十字架の死が滅ぼしてくださいました。
 だから何かにいつも追いかけられるように、息つく暇もないと生きていくのではありません。わたしはイエス様の救いの御業に、十字架と復活に赦され受け入れられているからです。それは神の広げてくださる腕のなかにぎゅっと抱かれる憩いです。あなたを愛している。あなたの日々を受け入れている。あなたの人生をわたしが愛おしく思うと、そう神が語りかけられている。あなたを罪から取り戻すためなら、ご自分の独り子をも十字架に引き渡してもかまわない。それほどにあなたを愛している。そう語られるのがイエス様の十字架の死なのです。
 そういう死は、わたしたちが自分の死を迎えるときにも得られることではありません。「死んだ者は罪から解放されます」と教えられても、神があなたを慈しみ愛していると語られる死は、イエス様の十字架の他にはありません。だから聖書はキリストの死を喜び語るのです。教会は十字架を掲げるのです。わたしたちはイエス様の死にあやかるのです。キリストの死にあやかることを赦されている恵み、それがわたしたちの今日を健やかに導くのです。

ささげもの

ささげもの  

マタイによる福音書2章11節

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 幼子イエス様まで導かれた東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬、この三つの献げものをしました。それらは博士たちの携えていた宝の箱から出されました。宝の箱はいつも身につけておくためのリュックサックか肩掛けカバンか何かであったようです。博士たちの献げたのは肌身離さず身につけてきた大切なもの。これはどうしても手放すことのできないもの。それを失ったら自分の身分を証しすることができなくなるもの、親から受け継いだ大切な形見かも知れません。いずれにしても決して無くすことのできないものをイエス様にお献げしました。自分たちの持っている物の一部を献げたのではありません。たくさんの荷物の中から、これを選んでというのではありません。これを献げるより他ない。これがわたしのすべてだというようなものをお献げしました。
 わたしたちも礼拝に献金をお献げします。献金は「献身のしるし」であると言われます。博士たちが自分のすべてを献げるように、その精神が献身という言葉にあらわされているように思います。そこで献身というと何か自分の犠牲を払って、痛みを覚えて神さまのためにというように受け止められやすいと思います。でも、博士たちの献げものは、そしてわたしたちの献身は自分の身を切るようなことではありません。神の恵みによって生きる者となることです。神が恵みを持って導いてくださるところへ、神の恵みのうちに自分を明け渡すことです。献げものをしてわたしたちは損をするのでも、何かを失うのでもありません。博士たちは宝の箱から取り出すような宝を献げました。肌身離さず持ってきた宝を、イエス様に献げました。でもそこに彼らは知りました。神がわたしたちを宝としてくださることを。そして神の最も尊い宝を、イエス様を与えてくださったことを知りました。そして神がイエス様を与えてくださるほどの恵みに、委ねて生きて良いことを知りました。
 献身とは恵みに生きるということです。神がわたしたちに与えてくださり、導いてくださいます。神がわたしを宝として用いてくださいます。そういうわたしたちの日々を神のものとして生きることです。自分で自分の命を保証しなければならない生き方ではありません。体の用心はできるでしょう。しかし考えてみれば、この世の最後の死に際して自分では何もすることは出来ません。でもそのようなわたしたちの生涯を受け取ってくださる方があるのです。導いてくださる方があるのです。わたしたちはその方に向かって生きる。それが献身です。わたしたちの神にささげるべきは、神に明け渡すことのゆるされているのは、わたしたちのすべて、わたしそのものです。
 わたしたちが肌身離さず、宝の箱に収めるように抱えているのは、金銀財宝ばかりではありません。わたしたちの心の奥底に命の悩みをわたしたちは抱えてきました。自分の人生の過ちを、後悔としてしまってきました。ゆるされない思いを抱えていました。人を愛することのできない欠けを、恨みを抱えていました。愛する家族の心配を、将来への不安を肌身離さず抱えてきました。
 でもイエス様に導かれるとき、わたしたちはこの方の前にそれをも献げて良いのです。幼子の前に降ろしても良いと語られるのです。この方が担ってくっださるからです。十字架の救いによって、わたしの悩みを苦しみを神に明け渡すことのできなかった罪からの与えてくださるからです。それが神にささげる生活だからです。神の恵みに生きることだからです。

あなたの始まり

あなたの始まり

マタイによる福音書1章1節

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図

 イエス様はわたしたちの王です。王とは、敵から救い出し国民の生活を守る存在です。イエス様がわたしたちの王であるのはわたしたちがこの方に敵から救われているからです。
 ユダヤの人たちは待ち望んでいた神のメシア、新しい王様は、ローマ帝国の支配からわたしたちを救い出してくれる者だと考えていました。イエス様に従えば、ローマからの独立を果たすことができると考えていた弟子もありました。しかし、イエス様はローマの手によって十字架につけられた王です。イエス様の十字架の罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されました。王として高く上げられたのは、十字架の上でした。人々の求め願う姿はそこにありません。むしろこれは自分たちの王ではないということこそが明らかになりました。
 マタイによる福音書が書かれたときには、ナザレのイエスという男が十字架につけられたというのは誰もが知っていることでした。イエス様の十字架を知る人々は思ったのです。イエス様ではなかった。あぁまだメシアは来ていない。神の約束は果たされていない。またわたしたちの惨めな日々が始まる。救いは訪れていないと。
 でもこの福音書はここにいうのです。王は来たると。アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストと。十字架のイエス様がキリストであると。救い主、わたしたちの王であると。そしてそのことを神が明らかにして下さるのだと、語るのです。
 神の救いのもとに、自分がいないと思う。それが人間を苛む惨めさですが、同時にわがままであり、身勝手な思いです。神のメシア、王がいないというのですから、自分が王になるより仕方がありません。わたしたち人間が、争うのは互いに王になるからです。自分で自分を守ろうとしなければならなかったからです。人の幸せを妬み、人の不幸を喜ぶなどというのは、わたしたちが王として振る舞っているしるしです。何も人の上に立つことばかりではない。みんなが神ならざるものに王を求めている。そして自分の人生の中で王様になろうとしています。そういうわたしたちに神は王を与えて下さいました。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という一言が告げるのは、アブラハムの子ダビデの子であるイエスという人物があなたの王だということです。十字架につけられた罪人ではない。十字架につけられたあの方が、あなたを罪から救うキリストだと、信仰の根本を語るのです。
 イエス様こそキリストである。それは教会に集う者にとって何ら新しいことではないかも知れません。そんなの当たり前でしょ?と言えるでしょう。ユダヤ人のように、改めてイエス様が待ち望んできたキリストなのかどうかと今新たに問う必要はないでしょう。けれども、本当にわたしたちがイエス様をメシアとして、わたしたちに与えられた王として、その御前に服しているか。あなたの生活はこの方の救いから始まっているかということを、わたしたちも顧みることは決して無駄なことではありません。
 教会はイエス様がキリストだということを当たり前だとはしてきませんでした。イエス様がわたしたちの救い主であることを、そのことのみを繰り返し語ってきたのです。神の大きな祝福の中で、まことの王がわたしたちのもとに来られている。「イエス様」のお名前を口にする度に胸が熱くなるほどに、教会は新しくイエス様がキリストだと語ってきました。救いの始まりを語ってきました。そこに、救われたわたしたちの始まりがあるからです。